笠原熊野神社。武蔵七党児玉党の竹沢氏所縁の社
笠原熊野神社の概要
笠原熊野神社は、比企郡小川町笠原にある神社です。笠原熊野神社の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで別当を勤めていた雲龍寺は、竹沢靱負が嘉元年間(1303-1306)に創建している点、竹沢氏の一族で靱負尉に任官したことが当地名発祥の由来と伝えられる点などから、当社も同時期の創建ではないかと推定されています。境内の大杉は小川町天然記念物に指定されています。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 伊弉冉命、速玉男命、事解男命 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、山神社、弁天社 |
祭日 | 御例祭10月15日、祈年祭4月3日、 |
住所 | 比企郡小川町笠原333 |
備考 | - |
笠原熊野神社の由緒
笠原熊野神社の創建年代等は不詳ながら、明治維新まで別当を勤めていた雲龍寺は、(武蔵七党児玉党の一支族)竹沢靱負が嘉元年間(1303-1306)に創建している点、竹沢氏の一族で靱負尉に任官したことが当地名発祥の由来と伝えられる点などから、当社も同時期の創建ではないかと推定されています。
新編武蔵風土記稿による笠原熊野神社の由緒
(男衾郡竹澤靱負村)
熊野社
村の鎮守なり雲龍寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による笠原熊野神社の由緒
熊野神社(靱負三四三)
靭負の熊野神社は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族で、竹沢郷一帯を領した竹沢氏の館跡とされる場所に祀られており、境内には竹沢左近将監の供養塔と伝えられる五輪塔がある。熊野神社の創建の年代は不明であるが、神社に隣接する竹沢山雲龍寺には、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にここに草庵を設けたことに始まるとの寺伝があることから、熊野神社の創建もこれと同時期と見る人もある。
靭負では、熊野神社と雲龍寺が密接に関係していたため、いわゆる神仏分離令が出された後も、実態としてはなかなか分離が進まなかった。そのため、雹祈祷(春祭り)は雲龍寺の僧が祭りを行い、秋祭りは神職(地元にいないため飯田から呼んだ)が祭りを行うといった状況が明治二十年ごろまで続いていたという。
熊野神社の社殿は、元来は南向きであったが、明治二十二年に拝殿を建築した際に立地上の理由から東向きに変えた。また、境内には昭和三十八年に「熊野神社の大杉」として町指定天然記念物になった老杉があるが、戦前はさらに大きい老杉が鳥居の脇にあった。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
「埼玉の神社」による笠原熊野神社の由緒
熊野神社<小川町靱負三四三(靱負字上ノ山)>
竹沢郷一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
靱負の鎮守として祀られてきた当社の南側には、神仏分離まで別当であった雲龍寺がある。寺伝によれば、同寺は、後深草天皇に仕えた竹沢靱負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にこの地に草庵を設けたことに始まるとされる曹洞宗の古刹である。当社の創建の年代は明らかではないが、この寺伝から推察して鎌倉時代のことといわれている。ちなみに、靱負とは、宮城の警護に当たる官人のことで、一族の中からは、江戸時代に靱負として出世した人物も出ているという。
昭和三十八年、境内の大杉が町から天然記念物の指定を受けた。この杉は、樹高三三メートル、目通り三・四メートルという大きなものである。昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった。(「埼玉の神社」より)
笠原熊野神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「小川町の歴史別編民俗編」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)