穴八幡古墳。埼玉県内最大級の方墳
穴八幡古墳の概要
穴八幡古墳は、比企郡小川町増尾にある名所旧跡です。穴八幡古墳は、古墳時代終末期の7世紀後半に作られた埼玉県内最大級の方墳です。方墳の大きさは、墳丘高約5.6m、一辺32m、内堀幅5.7m、外堀幅3.7-4.7mあり、横穴石室は下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩で作られ全長8.2mあります。鎌倉~室町期にかけて梅皇子が当古墳に重葬されたとも推定されている他、江戸時代前期の寛文年間(1661-1673)に、陸田造成のため当地を切り崩したところ、横穴石室が見つかったことから造成を中止したことが新編武蔵風土記稿に記載されています。昭和34年埼玉県史跡に指定されています。
旧跡・名所名 | 穴八幡古墳 |
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区分 | 埼玉県指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 比企郡小川町増尾63-1 |
備考 | - |
穴八幡古墳の縁起
穴八幡古墳は、古墳時代終末期の7世紀後半に作られた埼玉県内最大級の方墳です。方墳の大きさは、墳丘高約5.6m、一辺32m、内堀幅5.7m、外堀幅3.7-4.7mあり、横穴石室は下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩で作られ全長8.2mあります。江戸時代前期の寛文年間(1661-1673)に、陸田造成のため当地を切り崩したところ、横穴石室が見つかったことから造成を中止したことが新編武蔵風土記稿に記載されています。昭和34年埼玉県史跡に指定されています。また、「埼玉の神社(大塚八幡神社項)」では、「鎌倉から室町にかけて重葬が行われており、骨壷が納められていた。石槨入口の左側石面に「建治二(四)年戊寅二月彼岸日」と年紀が刻まれているから建治初年に葬られた有力者がいたことになる」として梅皇子が当地に重葬された可能性があると記しています。
境内掲示による穴八幡古墳について
穴八幡古墳
小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望にみわたせることなどから、この古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
新編武蔵風土記稿によれば、この古墳は寛文(一六六一~一六七三年)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。なお、文政十二(一八二九)年、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。(埼玉県・小川町教育委員会掲示より)
境内掲示による穴八幡古墳について
穴八幡古墳
当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和三四年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和六三年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
古墳は、墳丘の高さ約五・六m、一辺の長さ三二mを測り、周囲の堀は内堀が幅五・七m、外堀が三・七~四・七m、外堀の一辺の長さ六一・四mを測る、県内最大級の方墳です。
石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長八・二mを測ります。
当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、七世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。(埼玉県教育委員会・小川町教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による穴八幡古墳について
(増尾村)
古墳
村の北にあり、徑り十間、高二三間の塚なり、寛文年中坪井次右衛門が當所の御代官たりし時、村民等この塚を切崩して陸田となさんとせしに、右に圖せる如き石室現はれしゆへ、其事半にして止たりしと云、石室の奥行四間許、内法の高さ六尺、幅五尺餘、總て青石を以壘み上げ、又同じ石の五六寸角なるものを柱石として所々に設けたり、室中入口の左の方に建治四年二月二日と刻す、相傳へて宗尊親王の廟なりとも、又守邦親王の廟なりともへど、共に年代あはず、恐くは別にゆへある貴人の葬穴なるべし、又あばきし始は穴中に五輪の石塔と石棺ありし由いひ傳ふ、又水晶の珠數玉に似たるものを、掘出せしことありと云、是等は全く明器の類にて、曲玉など云べきものなるべし、(新編武蔵風土記稿より)
穴八幡古墳の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」