飢饉警告之碑。飢饉に備えるための戒めとして造立
飢饉警告之碑の概要
飢饉警告之碑は、比企郡小川町勝呂にある名所旧跡です。飢饉警告之碑は、天保7年(1836)の飢饉に苦しんだ勝呂村の名主吉田家当主が、飢饉に備えるための戒めとして天保13年(1842)に石碑を造立したといいます。道路改修に伴い昭和56年当地へ移設されています。
旧跡・名所名 | 飢饉警告之碑 |
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区分 | 埼玉県指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 比企郡小川町勝呂 |
備考 | - |
飢饉警告之碑の縁起
飢饉警告之碑は、天保7年(1836)の飢饉に苦しんだ勝呂村の名主吉田家当主が、飢饉に備えるための戒めとして天保13年(1842)に石碑を造立したといいます。道路改修に伴い昭和56年当地へ移設されています。
境内掲示による飢饉警告之碑について
飢饉警告之碑
この碑は、天保一三年(一八四二)に当時勝呂村の名主であった吉田金右衣文が飢饉に備えて平素から農事に励み、非常の際の準備を怠ってはならない戒めとして建立したものです。(小川町教育委員会掲示より)
新設石碑による飢饉警告之碑について
飢饉警告の碑は、勝呂九番吉田卯一家の五代前の先祖で、当時勝呂村名主であった吉田金右衛門明敬が凶年の苦を憂い造立したものである。
道路改修のため竹沢勲家の土地を使用させていたあき、町の補助金と吉田卯一家の芳志により昭和五十六年十一月移建した。
石文趣意
天保七年は夏の初めから秋の頃まで、休みなく雨が降り、非常に低温のために五穀は実らず、蔬菜の生長は悪く、収穫が極端に減少した。物価は騰貴し住民は飢饉に苦しんだ。
この様な飢饉の年は三十年乃至五十年の間には必ず来るものであるから、平素から農事に励み、その時の準備を怠ってはならないと言う戒の事が刻まれている。(新設石碑より)
飢饉警告之碑の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」