長福寺。行基菩薩が養老元年に創建、長尾四郎高勝中興開基
長福寺の概要
天台宗寺院の長福寺は、高勝山恵学院と号します。長福寺は、養老元年(717)に行基菩薩が開山したと伝えられる古刹です。その後荒廃していた同寺を、長尾四郎高勝(長福院了徳禅定門)が開基となり、康安元年(一三六一)に栄範が中興開山、高勝山長福寺と号したといいます。江戸期には幕府より阿弥陀堂領として10石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していました。武蔵国十三仏霊場の10番阿弥陀如来の寺です。
山号 | 高勝山 |
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院号 | 恵学院 |
寺号 | 長福寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 比企郡小川町飯田870 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長福寺の縁起
長福寺は、養老元年(717)に行基菩薩が開山したと伝えられる古刹です。その後荒廃していた同寺を、長尾四郎高勝(長福院了徳禅定門)が開基となり、康安元年(一三六一)に栄範が中興開山、高勝山長福寺と号したといいます。江戸期には幕府より阿弥陀堂領として10石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していました。
境内掲示による長福寺の縁起
長福寺は、天台宗の寺で養老元年(七一七)全国を巡錫中の行基が、荒涼とした当地の開発を目的に開山したと伝えられ、本尊は阿弥陀如来である。
その後、数度の災火に遭遇し荒廃していたが、康安元年(一三六一)長尾四郎高勝が時の住職栄範法印と力を合わせて再興したといわれ、現在に至っている。
本堂の上手竹林の中にある宝篋印塔は、元は寺の東方の天神山に建立されていたものであるが、昭和四十年代にここに安置したものである。作風から想定すると、室町時代の供養塔と思われる。
慶安二年(一六四九)徳川家光公より、阿弥陀堂領として高十石の御朱印を受け、徳川幕府代々の朱印状が保存されている。(埼玉県・小川町掲示より)
新編武蔵風土記稿による長福寺の縁起
(飯田村)
長福寺
天台宗、男衾郡塚田村普光寺の末、高勝山惠覺院と號す、始は院號を呼名とせし由傳ふれど、其改めし年代はしらず、慶安二年彌陀堂領として、十石の御朱印を賜ふ、寺傳に當寺は養老元年四月の草創にして、開山は永辨なりといへど、この僧治安元年四月廿四日の示寂なれば、養老を下ること凡三百年に餘れり、恐くは傳への訛あるべし、其後遥の星霜を經て、長保二年八月回禄の災に罹り、堂宇以下烏有となりしかば、草庵を結びて纔に法統を繼げりと云、長保は治安より二十年前のことなれば、是も寺傳の杜撰なること知べし、又云後村上院御宇康安元年の頃長尾四郎高勝なる者、當寺第十三世の僧榮範と力を合せて再造し、舊觀に復せり、高勝の法謚を長福院了徳禅定門と號す、其墳墓は今村の東にあり、由て山を高勝と唱へ、寺を長福と號すと、榮範は康安元年十二月廿日寂を示せり、是を中興の開祖とす、本尊は三尊の彌陀にして、行基の作れる所なり、
石船權現社。昔の神體は船の形をなせる一尺五寸許の石なり、旱魃の時はこの神體を社前の御手洗へひたして、雨を祈れば必驗ありしが、何の頃か失ひて今は幣束のみを置り、
薬師堂(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による長福寺の縁起
長福寺(飯田八七〇)
長福寺は、高勝山恵学院と号し、天台宗に属する寺院である。江戸時代は、男金郡塚田村(現寄居町)普光寺の末であった。本尊は阿弥陀如来で、『新編武蔵風土記稿』は、長福寺の本尊について、「本尊は三尊の弥陀にして、行基の作れる所なり」と載せている。
寺伝によれば、長福寺は養老元年(七一七)に行基が開創したとされている。かつては長福寺の開山を良弁とする説もあったが、良弁の没年が治安元年(一〇二一)であることや、寺に伝わる法灯の記録を逆算すると養老年間にまで遡ることなどから、良弁とする説は誤りであろうと考えられている。
その後、長保二年(一〇〇〇)八月、火災により全焼したが、草庵を結んで法灯を継ぎ、康安元年(一三六一)に至って長尾四郎高勝(法謚は長福院了徳禅定門)が当寺十三世栄範と協力して再興した。これを長福寺の中興としており、山号寺号は開基の長尾四郎高勝にちなんだものであろう。天保十五年(一八四四)正月に再ぴ焼失したが、当時の住職春乗は檀徒の協力を得て現在の堂宇を建立した。また、慶安二年には弥陀堂領として一〇石の朱印を賜っている。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
長福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」