東昌寺。守邦親王が信仰した薬師如来像
東昌寺の概要
曹洞宗寺院の東昌寺は、歓喜山と号します。東昌寺は、瑞厳正達和尚が開基、大梅寺二世鉄州太牛和尚が開山したといいます。当寺薬師堂の薬師如来像は、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が当地に逃れて梅岑寺(大塚八幡神社)に仮寓した際、鬼門にあたる位置に奉安されていたこともあり、親王が信仰したと伝えられ、小川町有形文化財に指定されています。
山号 | 歓喜山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 東昌寺 |
本尊 | 釋迦牟尼佛像 |
住所 | 比企郡小川町角山293 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東昌寺の縁起
東昌寺は、瑞厳正達和尚が開基、大梅寺二世鉄州太牛和尚が開山したといいます。当寺薬師堂の薬師如来像は、鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が当地に逃れて梅岑寺(大塚八幡神社)に仮寓した際、鬼門にあたる位置に奉安されていたこともあり、親王が信仰したと伝えられ、江戸期には(薬師如来像の眷属とされる)十二神将が小川の笠間内蔵助から奉納されたともいいます。
新編武蔵風土記稿による東昌寺の縁起
(角山村)
東昌寺
觀喜山と號す、曹洞宗、大塚村大梅寺末、開山鐵州太牛寂年を傳へず、本尊薬師を安ず、(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による東昌寺の縁起
東昌寺(角山二九三)
東昌寺は、観喜山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代は大塚の大梅寺の末であった。開基は瑞厳正達和尚、開山は大梅寺二世の鉄州太牛和尚であると伝えられているが、創建の時期については不明である。その後、火災などによって堂宇以下古文書類も焼失したが、文化元年(一八〇四)三月に再建され、現在に至っている。本尊は、釈迦牟尼仏で、家門繁栄・子孫長久・災障消除・初縁吉祥などの御利益があるという。
一方、『新編武蔵風土記稿』には「本尊薬師」とあるが、これは境内の薬師堂と混同したものと思われる。東昌寺の薬師堂は、鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が当地に逃れ来て、大塚に仮寓して再起を期した際、この薬師堂が御門の鬼門に当たることからいたく信仰されたと伝えられ、諸病平癒の御利益があるとして知られている。かつては九月の七日・十一日・三十一日の御開帳には大般若経の転読が行われ、寺では薬湯を立て信者に入湯を勧めたため、多くの参詣者でにぎわったという。小川の笠間内蔵助が娘の眼病平癒のため寛文年間に奉納した十二神将は当時の名残りである。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
東昌寺所蔵の文化財
- 東昌寺薬師如来立像(小川町指定有形文化財)
東昌寺薬師如来立像
本像は東昌寺薬師堂の本尊で、像高は七十一、七cmを測る薬師如来立像です。螺髪を巻縄状に表現し、左足をやや前にして立つところに特徴があります。薬師如来立像は古くから人々の病気を癒し、心の病を除く仏像で、この薬師如来立像も目の守り本尊として近在の人たちに広く信仰されてきました。
この仏像は寄木造(檜材か)で、玉眼、肉身部金泥彩、衲衣部金箔(ともに後補)からなり、その構造は頭部の耳後で前後二材を矧ぎ、体部は同じく前後二材を矧ぎながら間に薄材を一枚はさんでいます。その他、体部両側に各々別材を寄せ、両手・両脚を別材としています。
様式、技法的には鎌倉期の慶派の作風を思わせますが、顔や衣文の表現等に形式化したところが多くあり、製作期は室町期末から桃山期頃まで降ると思われます。作者は洗練された彫技から、京都系の仏師と思われます。(小川町教育委員会掲示より)
東昌寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」