能満寺。承和元年に創建
能満寺の概要
天台宗寺院の能満寺は、金叡山正善院と号します。能満寺は、定栄大法師(承和14年847寂)が承和元年(834)に創建したと伝えられ、往時は国司代々の祈願所として七堂伽藍や数十の支坊を持つ大寺だったといいます。その後戦禍により衰微した当寺を、元禄元年(1688)弁海法印が中興しています。明治13年火災により焼失し、現本堂は、質蔵を買い受けて改造したものだそうです。
山号 | 金叡山 |
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院号 | 正善院 |
寺号 | 能満寺 |
本尊 | 釈迦三尊像 |
住所 | 比企郡小川町腰越1563 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
能満寺の縁起
能満寺は、定栄大法師(承和14年847寂)が承和元年(834)に創建したと伝えられ、往時は国司代々の祈願所として七堂伽藍や数十の支坊を持つ大寺だったといいます。その後戦禍により衰微した当寺を、元禄元年(1688)弁海法印が中興しています。明治13年火災により焼失し、現本堂は、質蔵を買い受けて改造したものだそうです。
境内掲示による能満寺の縁起
能満寺は、承和元年(八三四)に僧定栄により開かれたと伝えられている天台宗の寺院で金叡山と号し、本尊は釈迦如来である。
元禄元年(一六八八)弁海法印が中興し、寄居町塚田普光寺の末寺である。
能満寺は度重なる火災にあっており、現在の本堂は明治十三年(一八八〇)焼失した後、民家の蔵を改造したものである。(埼玉県・小川町掲示より)
新編武蔵風土記稿による能満寺の縁起
(腰越村)
能満寺
天台宗、男衾郡塚田村普光寺の末、金叡山正善院と號す、本尊釋迦を安ず、
虚空蔵堂
地蔵堂(新編武蔵風土記稿より)
「小川町の歴史別編民俗編」による能満寺の縁起
能満寺(腰越一五六三)
能満寺は、金叡山正善院と号し、天台宗に属する寺院である。江戸時代は男衾郡塚田村(現寄居町)普光寺の末であった。本尊は釈迦如来で、本堂には釈迦三尊像が祀られている。
寺伝によれば、能満寺は承和元年(八三四)の草創で、開山の定栄大法師は承和十四年(八四七)の没であるという。また、嘉祥三年(八五一)には寺号を改定したとの伝えもあるが、改定の経緯や改定前の寺号については不明である。往時は、国司代々の祈願所として七堂伽藍や数十の支坊を持つ大刹として隆盛を極めたが、鎌倉・室町時代には戦火に罹り、その後も幾度かの火災に見舞われたため、寺は衰微し、寺宝や古記録もことごとく失ってしまったという。
普光寺の門徒であった弁海法印によって能満寺が中興されたのは元禄元年(一六八八) で、この時に普光寺の末寺になったものと思われる。現在の建物は、明治十三年五月の火災後、翌十四年に再建されたものである。この三階建の建物は、下古寺にあった質蔵を買い受けて改造したもので、三階を本堂として使ってきたが、不便であったため、平成に入って檀徒が浄財を拠出し、本堂を新築した。(「小川町の歴史別編民俗編」より)
能満寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「小川町の歴史別編民俗編」