輪禅寺。比企郡小川町上横田にある曹洞宗寺院

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輪禅寺。父武田信実の菩提を弔うため川窪信俊が開基

輪禅寺の概要

曹洞宗寺院の輪禅寺は、一機山と号します。輪禅寺の創建年代等は不詳ながら、当初は安養寺という小寺だったと伝えられます。徳川家康の関東入国後に当地の領主となった川窪(武田)信俊は、長篠の合戦で討死した父武田信実の菩提を弔うため、伝州忠的(元和5年1619年寂)を開山として曹洞宗寺院として慶長13年(1608)に開山したといいます。武田氏一族の墓域、及び武田信俊筆鷹絵図は小川町有形文化財に指定されています。

輪禅寺本堂
輪禅寺の概要
山号 一機山
院号 -
寺号 輪禅寺
本尊 釋迦牟尼佛像
住所 比企郡小川町上横田1215
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



輪禅寺の縁起

輪禅寺の創建年代等は不詳ながら、当初は安養寺という小寺だったと伝えられます。徳川家康の関東入国後に当地の領主となった川窪(武田)信俊は、長篠の合戦で討死した父武田信実(武田信玄の異母弟)の菩提を弔うため、伝州忠的(元和5年1619年寂)を開山として曹洞宗寺院として慶長13年(1608)に開山、武田信実の法謚輪禅寺玉輪一機居士より一機山輪禅寺と号したといいます。川窪家累代の菩提所となっていた他、地元子女に裁縫を教えるなど教育にもつとめ、明治7年には上横田学校が当寺境内に開校しています。

新編武蔵風土記稿による輪禅寺の縁起

(上横田村)
輪禅寺
曹洞宗、上野國甘楽郡天引村向養寺の末、一機山と號す、三尊の彌陀を本尊とせり、當寺はもと安養寺と云て僅なる寺なりしを、慶長十三年川窪新十郎信俊、其父武田兵庫頭信實が追福の爲に造營し、此人の法謚に因て寺號等を改めたり、故に信實をもて開基と稱し、僧傳州忠的を開山とす、傳州は元和五年十二月八日示寂せり、信實は天正三年五月廿一日三河國長篠合戰に、鳶巣にて討死す、法號輪禅寺玉輪一機居士と云、其墳墓境内にあれど、こは當寺造營の時建しものなり、新十郎信時も初めは武田と稱せしが、天正十年甲斐國川窪と云所を領せしより、氏を改めたり、かゝる由緒に因て今も本堂に武田信虎及び晴信勝賴の位牌を置り、(新編武蔵風土記稿より)

「小川町の歴史別編民俗編」による輪禅寺の縁起

輪禅寺(上横田一二一五)
輪禅寺は、一機山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代は、上野国甘楽郡天引村(現群馬県甘楽町)向養寺の末であった。本尊は釈迦牟尼仏であるが『新編武蔵風土記稿』は「三尊の弥陀」と記している。このほか寺宝として、川窪信俊筆の鷹絵二幅がある。
寺伝によれば、輪禅寺は、元は安養寺と称する小さな寺であったという。それを、慶長十三年(一六〇八)に川窪新十郎信俊が父の武田兵庫頭信実の追福のために現在地に移し、伝州忠的を開山として武田信実の法謚「輪禅寺玉輪一機居士」にちなんで一機山輪禅寺と号を改めたものである。安養寺についての詳細は不明であるが、国道二五四号椋バイパスの付近に安用寺という小字があることから、その地内にあったものと推測される。開山の伝州忠的は向陽寺の四世で、元和五年(一五七五)十二月入日の没である。
ちなみに、武田信実は武田信玄の弟で、天正三年(一五七五)月二十一日に長篠の合戦において討死した。その子信俊も初めは武田姓を名乗っていたが、天正十年(一五八二)に甲斐国(現山梨県)川窪という所を領したことから川窪姓に改め、元和三年(一六一七)に旗本となり、上横田と現児玉郡内に采地を有していた。
こうした経緯により、輪禅寺の本堂には武田家の位牌が置かれ、墓地の一角には武田家の墓所があり、立派な墓石が立ち並んでいる。信実は、長篠の合戦で没した後、山梨県塩山市の恵林寺に葬られているため、その墓石があるだけであるが、その後の子孫は明治初期まで累代輪禅寺に葬られており、現在も時折縁者の墓参がある。
このように、輪禅寺は武田家の菩提寺として知られているが、上横田に住む人々の菩提寺であることを忘れてはならない。輪禅寺では花祭り・大般若・施餓鬼会などの行事が地元の人々と共に行われ、境内の木像稲荷は失せ物に霊験があるとして信仰が厚い。また、かつては輪禅寺では長年に渡って地元の子女を対象として裁縫を教えてきた。墓所の入口に立つ針供養塔は、その名残である。(「小川町の歴史別編民俗編」より)


輪禅寺所蔵の文化財

  • 武田氏一族の墓域(小川町指定有形文化財)
  • 武田信俊筆鷹絵図(小川町指定有形文化財)

輪禅寺薬師如来立像

輪禅寺は、江戸時代初期に上横田村を治めた川窪(武田)信俊が、父武田信実(武田信玄の異母弟)の追福と一族の菩提所として、慶長十三年(一六〇八)に既にあった安養寺を廃して新たに建立した寺です。上横田村は天正十九年(一五九一)頃に川窪氏の知行地となったと考えられています。元禄十年(一六九七)に知行替えとなりましたが、それ以降もこここを菩提所としており、本堂西側の墓域には江戸時代末期に至るまでの一族の墓石が立てられています。(小川町教育委員会掲示より)

武田信俊筆鷹絵図

鷹絵図は二幅あり、裏書により承応二年(一六五三)に千野氏・五島氏が奉納したことがわかります。両氏は信俊の旧家臣で、信俊が描いたこの絵を在世中に拝領し、十三回忌にあたるこの年に菩提を弔うため輪禅寺に奉納したと伝えられています。(小川町教育委員会掲示より)

輪禅寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「小川町の歴史別編民俗編」