龍ヶ谷熊野神社。龍穏寺の境内鎮守として創建
龍ヶ谷熊野神社の概要
龍ヶ谷熊野神社は、入間郡越生町龍ヶ谷にある神社です。龍ヶ谷熊野神社は、龍穏寺第三世住僧泰叟如康が明応元年(1492)に寺の境内鎮守として創建、龍穏寺第五六世の僧道海沙門和尚が天保15年(1844)再建したといいます。明治維新後の神仏分離令により境内を区分して村内の20社を合祀、明治5年村社となったといいます。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 伊奘冉尊・速玉男尊・事解男尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 入間郡越生町龍ヶ谷453 |
備考 | - |
龍ヶ谷熊野神社の由緒
龍ヶ谷熊野神社は、龍穏寺第三世住僧泰叟如康が明応元年(1492)に寺の境内鎮守として創建、龍穏寺第五六世の僧道海沙門和尚が天保15年(1844)再建したといいます。明治維新後の神仏分離令により境内を区分して村内の20社を合祀、明治5年村社となったといいます。
新編武蔵風土記稿による龍ヶ谷熊野神社の由緒
(龍ヶ谷村龍穏寺内)
熊野社。第三世泰叟の勧請する所、境内の鎮守なり(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による龍ヶ谷熊野神社の由緒
熊野神社<越生市竜ケ谷四五二(竜ケ谷字裏山)>
当社は、杉の木が林立する山中に鎮座し、伊奘冉尊・速玉男尊・事解男尊を奉斎する。
当社境内地は、竜穏寺と隣接しているが、これは寺の鎮めとして創祀され、山門の中にあったことを物語る。竜穏寺は江戸期に曹洞宗関東三カ寺の一つで幕府の庇護厚き格式高い寺であったため、村民の山門出入は禁じられ参拝できなかった。明治初めの神仏分離により、境内を区画して参道を設け、村内に散在していた八坂社ほか二〇社の小祠を境内に移し、村民の参拝が許されて寺の神社から村鎮守となり、明治五年に村社となった。
社記によると、明応元壬子年に竜穏寺第三世住僧泰叟如康が、紀州熊野本宮の産たるにより勧請し寺鎮守としたという。一説に熊野から背負ってきたともいう。その後衰退したのを同寺五六世の僧道海沙門和尚が再建した。
この時の棟札が現存し「奉遷宮熊野之社大権現並相殿之諸大神祇 仰冀護法安人賞善罸惡山門鎭靜」と寺の鎮めとしての鎮祭がわかる。現社殿はこの時のもので、この山中にもかかわらず目をみはるほどの素晴らしい彫刻は、往時の竜穏寺の隆盛を物語っている。
神仏分離以後、祀職は大満村八幡社祠掌の藤原直国、同一麿と続き、大正期より浅見家、昭和五二年より、石井家が務めている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による龍ヶ谷熊野神社の由緒
当神社は龍穏寺の守護として天保十五年(一八四四)に創建された。明治維新の神仏分離令により、地元の氏子に引き継がれ現在に至る。祭神は熊野本宮大社の須佐之男命である。従って縁結びの神社でもある。
当神社の特筆は壁画の彫刻である。彫師は群馬県山神村(現太田市)の名工、岸亦八による彫刻である。厚さ十センチ程の樫木に立体感あふれ、今にも飛び出して来そうな見事な彫刻である。本殿の背面にある古事記の神話を題材にした天照大神が天の岩屋戸から出た瞬間を彫った物である。その左右にも神話が物語として見事に彫られている。そのわきには龍が天から降りて来る様子が怖い程見事に表現されている。また、拝殿の天井に花鳥風月の絵が色鮮やかに描かれている。作者は酒井泡一の弟子酒井泡玉による作である。
神社の造りは、入母屋造り屋根は銅瓦葺で、建築様式は権現造りであり、荘厳さを現わしている。(龍ヶ谷地域活性化推進の会掲示より)
※註酒井泡一は酒井抱一、酒井泡玉は酒井抱玉と思われます。
龍ヶ谷熊野神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)