法恩寺。入間郡越生町越生にある真言宗智山派寺院

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法恩寺。新義真言宗の関東十一談林、越生氏一族所縁

法恩寺の概要

真言宗智山派寺院の法恩寺は、松渓山と号します。法恩寺は、天平10年(738)に行基が開創したと伝えられ、大伽藍の道場だったといいます。保元・平治の乱によって荒れた寺を、越生氏一族の倉田基行夫妻が出家して、源頼朝に寺の再興を願いでたところ、建久元年(1190)源頼朝は越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立して天台宗寺院として再興、将軍家繁盛の祈祷道場としたといいます。応永5年(1398)に阿闍梨権大僧都法印榮曇和尚が入山し、それまでの天台宗を真言宗に改宗して中興開山、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の御朱印状を拝領、新義真言宗の関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる格式の高い寺院だったといいます。また、当寺には、後鳥羽上皇の宸筆で源頼朝から拝領したとされる絹本着色高野・丹生明神像をはじめ、数多くの文化財を有しています。武蔵越生七福神の恵比寿、武州八十八所霊場初番です。

法恩寺本堂
法恩寺の概要
山号 松渓山
院号 -
寺号 法恩寺
本尊 木造聖観音像
住所 入間郡越生町越生704
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



法恩寺の縁起

法恩寺は、天平10年(738)に行基が開創したと伝えられ、大伽藍の道場だったといいます。保元・平治の乱によって荒れた寺を、越生氏一族の倉田基行夫妻が出家して、源頼朝に寺の再興を願いでたところ、建久元年(1190)源頼朝は越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立して天台宗寺院として再興、将軍家繁盛の祈祷道場としたといいます。応永5年(1398)に阿闍梨権大僧都法印榮曇和尚が入山し、それまでの天台宗を真言宗に改宗して中興開山、天正19年(1591)には徳川家康から寺領20石の御朱印状を拝領、新義真言宗の関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる格式の高い寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による法恩寺の縁起

(今市村)法恩寺
新義眞言宗、山城國醍醐三寶院の末、松渓山と號す、昔は報恩寺と書せしこと、後に出せる文書に見えたれど、今の如く改めし年歴は詳ならず、寺記を閲するに、當寺は天平十年の頃、行基菩薩東國遊行の日創建する所にして、最も大伽藍の靈場なり、則行基手づから大日・釋迦・彌陀・薬師・観音の五軀を造りて本尊となし、其後寶亀・延暦・弘仁・天長・承和・仁壽・貞觀・元慶・仁和・寛平等數度の修造あり、保元・平治の頃に至て兵亂の僧侶寺を捨て、山林に隠れ、堂塔佛閣の名のみ殘りて廢地となり、土人其跡を寺山と呼べり、其後文治年中當所の令たりし、倉田孫四郎基行と云者出家して、瑞光坊と號し、其妻を妙泉尼と稱せしが、當寺再興のことを右大将賴朝へ願ひしかば、頓て越生次郎家行に仰せて、堂塔以下舊の如く造營ありしと、時に建久元年のことなり、八町四方の寺地を賜はり、且是よりさき法相宗たりしを改て、天台宗となし、持光山の號を賜ひ、又吾那の内三百町の地を、かの夫婦が食邑に與へられしと、其餘佛像等若干寄附ありて、永世将軍家繁昌の祈禱すべきの命あり、又家行も太刀・鞍・鎧等歸納すと云、寺領寄附状等は數通ありしよしなれども、今存するものは僅に二通なり、其文左にのす、是明徳三年壬申に入る、(文面省略)
以上記す如く、世々の寄附状等數多ありしを以て、古刹なること推しはからる、中興の開山を阿闍梨権大僧都法印榮曇和尚と稱す、年譜録云、和尚字は治部、諱は榮曇、姓は山名氏、母は田中氏、相州鎌倉の人なり、和尚天性聡敏にして、一を聞て十を知る、年甫十四郷邑の大楽寺榮珍上人に從ひ、薙染し日夜密教を學び、遂に秘密の源底を研究し、傍ら性相の奥旨を渉獵す、應永三年八月入室して灌頂し、法王の職位を得て、意教の法流願行の脈水を受け、同五年二月報恩寺に入て大道場を開き、同二十五年五月二日化せりとあれば、この頃もしくは眞言宗となりて、山號をも松渓と改めしなるべし、第三世を権少僧都曇慶と云、此僧の時兵亂放火の災を被りて、伽藍悉く焼亡に及びて、剰へ鎌倉将軍の寄附等まで皆失ひしといへり、曇慶は應仁二年正月八日寂せり、第十世大僧都慶瑜上人、天正八年九月朔日上人の位を許され、同き九九年十一月寺領廿石の御朱印を附せられ、その文に
寄進 法恩寺
武蔵國高麗郡越生之内二十石之事、
右令寄附畢、殊寺中可爲不入者也、仍如件、
天正十九年辛卯十一月日
此御朱印の文によれば、今の如く法恩と改めしも舊きことなるはしらる、此僧後知足院を開て彼寺に轉住す、是當山住職上人號を唱ふる始めなりと云、第十二世法印慶秀和尚字を純良と云、屡東照宮に謁し奉りしが、或時川越城へ成らせ玉ひし頃、純良急ぎ参上せしとき、取次衆其名を忘れて廢房参りたりと申せしかば、大に是を笑はせ給ひ、其後は廢房とよばせられしにより、時人もいつとなく廢純良など稱せりと云、此住持の代慶長七年京都三寶院の直末となり、頗る中興のkとあり、第十三世法印玄秀和尚、寛永十六年六間に十一間の客殿を建立して、再び古に復せりといふ。
寶物
羅漢畫像三幅。兆殿司の筆と云。
弘法大師畫像一幅。
高野明神畫像二幅。後鳥羽院の宸筆にして、右大将賴朝よりの寄附なりと云。
十六善神一幅。唐玄奘三蔵の筆なり、是も賴朝よりの寄附なりと云。
十二天畫像十二幅。一行阿闍梨の筆なり。
釋迦畫像一幅。張思恭の筆にて、賴朝より寄附する處なり。
大曼荼羅一幅。善無畏三蔵の筆なり、これも賴朝よりの寄附なりと云、今按に年譜録に、應永五年僧榮珍より榮曇へ與へし譲状あり、其文に弘法大師所筆之八祖肖影、八幅善無畏大師所圖、兩界大曼荼羅二幅、傳法灌頂道具密器等云々と見ゆれば、この曼荼羅は舊くより傳へしものにて、昔は二幅ありしならん、もしさあらんには、時代相當せざれば、賴朝の寄附せしには非るべし、且大師所筆の肖影等も失ひしにや、今は傳へず。
畫錦堂書織一鷹畫一。蛇足軒の筆と云。
客殿。本尊大日二尺三寸の坐像を安置す、行基菩薩の作と云。
表門、中門、裏門、庫裡。
鍾樓。明和三年鑄造の鐘をかけり。
護摩堂。
阿彌陀堂。彌陀は行基菩薩の作と云。
地蔵堂。
八幡社。年譜録によるに、この八幡は天平寶字元年伽藍鎮護の爲に、勧請するとことなりと云。(新編武蔵風土記稿より)

越生町教育委員会掲示による法恩寺の縁起

寺伝『法恩寺年譜』によると、松渓山法恩寺は天平十年(七三八)に東国遊行中の行基が開創したとされる。無住となり寺山と呼ばれていたが、鎌倉時代に越生氏一族の倉田基行夫妻が天竺僧とともに、紫雲棚引く古井から行基が奉じた五尊の仏像を見つけた。夫妻は草堂に仏像を祀り、出家して瑞光坊、妙泉尼を名乗った。建久元年(一一九〇)、この地を訪れた源頼朝は二人の話に感銘を受け、土地と田畑を寄進し、基行の甥の越生次郎家行に堂塔伽藍を建立させたと伝えられている。小字寺井に、金明水・銀明水と呼ばれる湧水が現存する。室町時代の応永五年(一三九八)に栄曇が入山し、それまでの天台宗を真言宗に改宗して中興開山した。
天正十九年(一五九一)には徳川家康から寺領二十石の朱印地を与えられ、江戸時代には新義真言宗の僧侶養成機関である関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる「独礼」を許された高い格式を持つ寺院となった。
「絹本着色高・丹生明神像」「絹本着色釈迦三尊及阿難迦葉像」(国指定重要文化財)、「絹本着色両界曼荼羅」(県指定文化財)、「木造大日如来坐像」「法恩寺年譜」(町指定文化財)など、寺の歴史と由緒を物語る様々な宝物が伝存している。(越生町教育委員会掲示(越生町教育委員会掲示より)


法恩寺所蔵の文化財

  • 「絹本着色高野・丹生明神像」(国指定重要文化財)
  • 「絹本着色釈迦三尊及阿難迦葉像」(国指定重要文化財)
  • 「絹本着色両界曼荼羅」(埼玉県指定文化財)
  • 「木造大日如来坐像」(越生町指定文化財)
  • 「法恩寺年譜」(越生町指定文化財)

法恩寺の周辺図