泉福寺。天台宗第3代座主慈覚大師円仁開山、関東天台宗の祖山
泉福寺の概要
天台宗寺院の泉福寺は、東叡山勅願院と号します。泉福寺は、天長6年(829)淳和天皇の勅願によって、天台宗第3代座主慈覚大師円仁が開山したといいます。平安末期の源平の乱により消失したものの、文暦元年(1234)比叡山の信尊上人が中興、信尊上人の弟子尊海上人は、川越の喜多院や中院等を中興したことから関東天台宗の祖山と称され東の比叡山・東叡山と号すといいます。徳川家康が関東に入国際には寺領5石の御朱印状を拝領しています。当寺所蔵の阿弥陀如来像は、弘長2年(1262)の造像で、国重要文化財に指定されています。
山号 | 東叡山 |
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院号 | 勅願院 |
寺号 | 泉福寺 |
住所 | 桶川市川田谷2012 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
泉福寺の縁起
泉福寺は、天長6年(829)淳和天皇の勅願によって、天台宗第3代座主慈覚大師円仁が開山したといいます。平安末期の源平の乱により消失したものの、文暦元年(1234)比叡山の信尊上人が中興、信尊上人の弟子尊海上人は、川越の喜多院や中院等を中興したことから関東天台宗の祖山と称され東の比叡山・東叡山と号すといいます。徳川家康が関東に入国際には寺領5石の御朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による泉福寺の縁起
(川田谷村)泉福寺
東叡山勅願院と號す、天台宗上野東叡山の末天正十九年御朱印地領五石を附せらる、本尊地蔵三尺慈覺大師の作と云、寺傳に當寺は天正年中慈覺大師の草創にて、中興開山は土佐律師信尊なりとすれど、高僧傳光徳明匠記等に據は、信尊實は開山の人にして、慈覺は勧請の開山なるべし、高僧傳云、信尊少して幸範に從て薙染得度し、寛元年中武州河田谷に於て精舎を開建し、第一世に屬す山を東叡といひ、寺を泉福と號す、云々、信尊を開山とするも寛元年中の草創なれば古刹と云べし。
彌陀堂。本尊彌陀は慈覺大師の作にして長六尺、此堂を大堂と云。
鍾樓。延寶七年の銘あり、考證とすべきことなければとらず。
根本堂。地蔵を安ず、堂の傍に元應二年庚申十二月憲海と彫る古碑一基あり。
塔頭。西光寺、東光寺。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県・桶川市掲示による泉福寺の縁起
この寺は、東叡山勅願院円頓房泉福寺と号し、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の別格寺院である。東叡山とは”関東の比叡山”という意味で、天皇の勅願所であると共に、学僧の養成道場としての学山である。
その開基は遠く、平安時代にさかのぼり、天長六年(八二九)淳和天皇の勅願によって、慈覚大師円仁が開山したものである。大師は自らの手で薬師如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来の三本の仏像を刻まれ、本尊として祀り、疫病除災等の祈願をされたと伝えられている。創当時は広大な寺域に堂塔伽藍が建ち並び、多くの塔頭を擁し、盛況の中にあったが、源平の乱に於いて戦火を被り、全てを焼失したと言う。
その後、鎌倉時代の文暦元年(一二三四)比叡山より信尊上人が来院され、河田谷殿の庇護のもと四人の弟子と共に復興に努力され、中興を成しとげた。
その弟子の一人尊海は、川越の喜多院、中院等を次々と復興すると共に、法脈からは多くの英才が輩出し、ここに関東談林が開花し、関東天台の台頭へと発展する。
このことにより当山が関東天台の祖山といわれるものである。
しかし、戦国時代の争乱の中で度重なる火難を受け堂塔伽藍を焼失した。
江戸時代に至り、勅願寺の故を以って幕府の庇護を辞退する中にも、その由緒により、御朱印地五十石の内の不入地四万坪のみを拝領するところとなり、堂塔も次第に整備され、宝暦二年(一七五二)には、山門、鐘楼を除き殆んど完成するに至った。現在の建物は大体この時代のものである。
なお、当山には、国指定重要文化財の阿弥陀如来座像(弘長二年-一二六二-銘)を始めとし、石の仁王像、雨乞いの龍など貴重な文化財が伝えられている。(埼玉県・桶川市掲示より)
泉福寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)
木造阿弥陀如来坐像
泉福寺は、天長6年(829)淳和天皇の勅願により後に天台宗第3代座主となった慈覚大師円仁がこの地に開基し、大師自らが阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の三像を彫り祈願したと伝えられています。この木造阿弥陀如来坐像は、像内背面にある墨書銘から鎌倉時代の弘長2年(1262)の造立であることが分かります。
像高は89.3cm、頭体主要部をヒノキの一材から彫りだし前後に割った割矧造りという技法で造られており、漆箔(黒漆を塗った上に金箔をはりつけること)が施されています。衲衣を左肩から背面に廻して右の方に浅く掛け再び左肩に掛けもどすという、偏袒右肩にまとい、両手は膝の上で弥陀の定印を結び、右脚を上に坐しています。
平安時代後期の仏師・定朝が確立した「定朝様」という様式に基づく保守的な作府ながら、一種写実的で清新な表現もうかがえることから、鎌倉時代を代表する作例といわれています。
この阿弥陀如来坐像は、かつては「大堂」と呼ばれる阿弥陀堂の本尊として安置されていました。現在は重要文化財としての重要性を考慮し、阿弥陀堂前の耐火収蔵庫に安置されています。(桶川市教育委員会掲示より)
泉福寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」