鎌形八幡神社。木曽義仲出生の清水、源氏所縁の社
鎌形八幡神社の概要
鎌形八幡神社は、比企郡嵐山町鎌形にある神社です。鎌形八幡神社は、坂上田村麻呂が東征に際して宇佐八幡宮を勧請して延暦12年(793)塩山に創建したと伝えられます。源頼義・義家親子も東征に際して尊崇、大蔵館の源義賢や、当地の清水で産湯を受け出生したその子木曽義仲など、源氏に所縁が深い社です。建武の中興後の戦乱により焼失し、木曽義仲清水伝説の残る当地に移転したと伝えられ、徳川家康が関東に入国した翌年の天正19年(1591)には、社領20石の御朱印状を受領していました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命、比売大神、神功皇后 |
相殿 | - |
境内社 | 厳島神社、八坂神社、瀬戸神社、山神社、白和瀬神社 |
祭日 | 春季例大祭4月3日、秋季例大祭10月13日、八坂神社祭7月16日 |
住所 | 比企郡嵐山町鎌形1993 |
備考 | - |
鎌形八幡神社の由緒
鎌形八幡神社は、坂上田村麻呂が東征に際して宇佐八幡宮を勧請して延暦12年(793)塩山に創建したと伝えられます。源頼義・義家親子も東征に際して尊崇、大蔵館の源義賢や、当地の清水で産湯を受け出生したその子木曽義仲など、源氏に所縁が深い社です。建武の中興後の戦乱により焼失し、木曽義仲清水伝説の残る当地に移転したと伝えられ、徳川家康が関東に入国した翌年の天正19年(1591)には、社領20石の御朱印状を受領していました。
境内掲示による鎌形八幡神社の由緒
鎌形八幡神社は、平安時代初期、延暦年間に、坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか厚く」と縁起の中にもある。
源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれている。
また、嵐山町指定文化財である懸仏が二枚保存されている。
安元二年(一一七六年)の銘がある懸仏は径十八センチメートルで、中央に阿弥陀座像が鋳出されていて「奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と陰刻されている。(但し、源義高は安元二年には生まれていない)もう一つの貞和四年(一三四八年)の銘がある懸仏は、径十七センチメートルで、薬師座像が鋳出されていて、「渋河閑坊 貞和二戊二子市t月日施主大工兼泰」と刻まれている。
その他、木曽義仲産湯の清水や、徳川歴代将軍の御朱印状などの多数の文書がある。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による鎌形八幡神社の由緒
(将軍澤村)
八幡社
村の鎮守にして、又田黒村玉川郷等の産神なり、天正十九年社領二十石の御朱印を賜はりしに、寛文四年焼失せしが、貞享二年再び御朱印を賜はり、正徳年中に當住某が記せる社傳あり、其中に延暦十二年坂上田村麻呂勅命を蒙り、東奥の夷賊退治として關東におもむきしとき、當山鹽山に勧請せり、相續て伊豫守頼義八幡太郎義家も、東征のみぎり所願をこめ、其後義賢・義仲・賴朝・尼御臺所等信仰淺からず、神田若干を寄せらる云々、又義仲誕生のはじめ、七箇所の清水を挹て、産湯に用ひしと云、此七ヶ所の清泉今は大抵廢せり、又當所の鐘は軍旅に奪はれ、秩父郷御堂村浄蓮寺の寶器となりたれば、今は鐘なし云々等のことを載せたり、されど彼鐘銘に、上州緑野郡板倉郷圓光寺、鐘、正慶二年癸鳥三月云々、及武州比企郡釜形郷八幡宮、鐘、大檀那矢野安藝守、文明十一年己亥八月九日と云をえりたれば、元は上野にありしを當所へ持来り、又秩父郡へ轉ぜしならん、さはあれ古社の證とはなすべし、又銅華曼二つを神寶とす、一は圓徑五寸五分、彌陀の坐像を鑄出し、傍に安元二丙申天八月之吉清水冠者源義高とあり、一は圓徑四寸八分、薬師の坐像を鑄出す左傍に貞和四戊子七月日、大工兼泰とあり、右傍に四の文字あれど磨缼して讀得ず、當所へ置るゆえんは傳へず、
別當大行院
本山修験、幸手不動院の配下なり、鎌形山眞福寺と號す、開山榮長寂年を傳へざれど、御堂村浄蓮寺文明十一年の鐘銘に、永運榮海などあるも當院世代の内なりと云へば、舊きこと推て知るべし、
櫻井坊
大行院と同く不動院の配下なり、大聖院と稱す、中興清傳天正三年寂す、本尊不動を安ず、
石橋坊
これも不動院の配下、開山源慶大永元年寂せり、本尊不動を安ず、此二坊の本山大行院と同じけれど今は大行院に屬して配下の如し、
薬師堂
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瀬戸明神社
村民持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鎌形八幡神社の由緒
八幡神社<嵐山町鎌形一九九三(鎌形字清水)>
当地は、槻川と都幾川の合流点にある。隣村の大蔵には源義賢の居城と伝える大蔵館跡があり、菅谷には畠山重忠の館跡がある。鎮座地は都幾川と境を接し、西に塩山を望む景勝地である。緑豊かな参道を進むと、清水が太竹の樋を通って手水鉢に注ぎ込む。この清水は、義賢夫人が駒王丸(木曾義仲)誕生の際に、七か所の清水を集めて産湯に使った「七清水」の名残と伝える。当社の西南には義仲が出生したという木曾殿屋敷の地があり、いずれも、源家とゆかりが深い。
当社の創建は、正徳六年(一七一六)に別当大行院秀繁が記した「鎌形八幡宮縁起」(『八幡神社文書』)によると、延暦十二年(七九三)に征夷大将軍坂上田村麻呂が塩山に筑紫の宇佐八幡宮を勧請して八幡太郎義家・木曾義仲・源頼朝など源氏の武将たちの崇敬を受けた。その後の戦乱により、社殿が兵火に罹り灰燼に帰したため、現鎮座地に移り再建されたと伝える。神像は、円頂法眼の応神帝大菩薩で、伝教大師の作とされるが、現在は所在がわからなくなっている。
当社は、二面の懸仏を奉安している。一面は、径一五センチメートルほどで阿弥陀如来像が鋳出され、「奉納八幡宮宝歬 安元二丙申天(一一七六)八月之吉 清水冠者源義高」の陰刻がある。奉納者の義高は木曾義仲の嫡男である。もう一面は経一八センチメートルほどの薬師如来像で、「渋河閑坊貞和二戊子年(一三四八)七月日施主大工兼泰」と刻まれている。また入間郡越生町大字堂山にある最勝寺の至徳三年(一三八六)四月の「大般若経奥書」や秩父郡東秩父村大字大河原の浄蓮寺の梵鐘に「鎌形郷八幡宮」の銘が見える。梵鐘の方には、「敬白武州比企郡 釜形郷 八幡宮鐘 大旦那矢野安芸守 文明拾一年(一四七九)己亥八月九日」と刻む。「正木文書」の建武二年(一三三五)十一月九日の「武蔵国内矢野伊賀守入道善久跡所領事」によれば、鎌形に接する須江郷(現鳩山町須江)が矢野氏の領地の一つであるから、同氏の勢力が当地にも及んでおり、当社に崇敬を寄せたのであろう。
別当の大行院は、幸手の本山派修験不動院の配下で、鎌形山真福寺と号した。准年行事職の格を有し、その下には、桜井坊・石橋坊がいた。大行院は開山の栄長の寂年が伝っていないため草創年代は明らかではないが、桜井坊邸内の板碑には正応六年(一二九三)の年紀があり、これが修験板碑とすれば、それ以前の創建である。天正十九年(一五九一)の社領寄進状の写によれば、当社は徳川家康から二十石の社領寄進を受けた。社領配当は、「御朱印頂戴ニ付本寺指上手形之下書」(『八幡神社文書』〉によると、二十石のうち十四石が大行院、残り三石ずつを二坊が分けた。なお、明治元年九月に大行院以下二坊は総督府伝達所へ復飾願を提出している。(「埼玉の神社」より)
鎌形八幡神社所蔵の文化財
- 鎌形八幡神社本殿(嵐山町指定建造物)
- 貞和の懸仏(町指定有形文化財)
鎌形八幡神社本殿
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。
本殿は、簡素な一間社流造りえ、装飾的な彫刻は、正面扉両脇・脇障子・蟇股・向拝木鼻・向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。
本殿の建立年代は、棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿于時寛延二己巳暦三月朔日遷宮」とあり、寛延二年(一七四九)である。しかし、新材がかなり含まれ、何度かの修理を経ているものと考えられる。いっぽう、身舎部分に付けられた蟇股、頭貫の木鼻などの形状は、簡素な整ったものであり、古式を踏襲したものか、あるいは棟札の年代よりもさらに古いものではないかと思われる。(嵐山町教育委員会掲示より)
貞和の懸仏
懸仏は建物の内側(内陣)にかけて、礼拝の対象などにしたもので、立体的な尊像や吊り懸けるための金具が設けられている。本来は御正体といい、神仏習合により神の本地として各種の仏が表現されることが多い。
この懸仏は、県内に所在する懸仏のなかで最も古い紀年銘をもち、中央には阿弥陀坐像が鋳出されている。
大工兼泰の懸仏は、東京国立博物館にもあり、大きさや紀年銘が一致し、ともに渋河の文字が刻まれていて、関連性が指摘されている。(嵐山町教育委員会掲示より)
鎌形八幡神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)