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大宮住吉神社。坂戸市塚越の神社、北武蔵十二郡の総社、旧郷社

大宮住吉神社の概要

大宮住吉神社は、坂戸市塚越にある神社です。大宮住吉神社は、天徳3年(959)当国の山田長慶が長門国の官幣社住吉神社をこの地に奉遷して創建、文治3年(1187)には源頼朝の命により北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭を務めたといいます。江戸期には徳川家光より慶安2年(1649)社領6石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格、大正15年郷社に昇格したといいます。

大宮住吉神社
大宮住吉神社の概要
社号 大宮住吉神社
祭神 表筒男命・中筒男命・底筒男命
相殿 -
境内社 和歌宮神社、天神社、疱瘡神社、厳島神社、総前神社、塚越神社、国分神社、八幡神社、など
祭日 祈年祭2月23日、例大祭4月第一日曜日
住所 坂戸市塚越254
備考 -



大宮住吉神社の由緒

大宮住吉神社は、天徳3年(959)当国の山田長慶が長門国の官幣社住吉神社をこの地に奉遷して創建、文治3年(1187)には源頼朝の命により北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭を務めたといいます。江戸期には徳川家光より慶安2年(1649)社領6石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格、大正15年郷社に昇格したといいます。

新編武蔵風土記稿による大宮住吉神社の由緒

(塚越村)住吉社
村の鎮守なり、慶安二年社領八石の御朱印を賜ふ、祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて、村上天皇の御宇天徳三年己未二月二十三日長門國山田邑より爰に遷し祟り、其後永享元年己酉九月十五日、關東管領左兵衛督持氏再興ありし時、底通日女明日登日止の神を配祀す、此若三神は普通に祀ると異なりといへども、當社神秘にて斯の如しと云、村内に永享元年の棟札及び慶長十五年、地頭村越與惣左衛門と記せし棟札あり、永享の棟札は左之如し(棟札中略)
とありて、文字を彫刻す、板は古く見ゆれど、永享年中の物とは見えず、尤文字を彫たる様は新しけれど、是は其剥落せしことを恐て、後世彫刻せし物なるべし、此紗は古へ勝呂郷の惣鎮守にて、勝呂大宮と唱へしと云傳ふ、前にも出せし如く【北條役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は、當社の事なるべし。
本社。中央に住吉明神、右に和歌三神、左に東照宮鎮座あり。
幣殿。拝殿。神楽殿。
末社。荒掃除神、荒神社、山王権現社、若宮明神社、木造神社、杉本神社、八重垣神社、子安神社、稲荷社、天満宮、疱瘡神社。
国分明神社。此祭神は明徳三年安房國館山の住人、佐原太郎・同次郎と云二人の兄弟、相從ふ者五人共に此地に来りて死せしを、後かく祀りたるとなり。
社寶。
千葉介常胤筆色紙一枚。此色紙實に治承の物とは思はれざれど、古色に見ゆれば左にのす。
治承四年の菊月末の□、武蔵國勝呂の郷といへる處の住吉社に、神拝しけるとてよみて奉り侍る
千葉介平□胤
あとたれていく世やふりぬすみよしの、宮ゐはさらに神さひにけり
陣鉦一。形ち普通の銅盥の如くにて蕨手なき許なり、至て薄し圓径一尺二寸、是は永享年間、持氏再建のとき納めしといひ傳へたれど、古色にも見えず覺束なし。
神職勝雅楽
吉田家の配下にて貞和年中より神職を勤めりと、口碑に傳ふるのみ、但慶長年中の舊記を蔵せり、其記に式部少輔重胤・主□□胤次・主水正盛晶・因幡守盛直・主水正盛陽・筑後守正盛・土佐守斎盛・筑後守正直・筑後守正吉・筑後守吉直・伊勢守吉次とあり、是其姓名を記せしのみにて卒年等を載せず、其内因幡守重直は當社に蔵する永享の棟札に記せし人なり、されば舊き神主なること論なし、想ふに當國七黨の内、野與黨に須黒を稱する者あり、是雅楽が祖先なるも知るべからず、家に公より賜はりし物とて所蔵の品あり、左のごとし。
御茶碗一
棗の茶入一。共に葵御紋あり、此二品は大猷院殿の御代、多摩郡府中六所神社修補の時、遷宮のことに預りしに因て賜りしと云。(新編武蔵風土記稿より)

坂戸市教育委員会掲示

社伝によると当社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っています。
当社は、室町時代中期(永享元年・一四二九年)に、鎌倉公方の足利持氏によって社殿が再建されたといわれており、永享元年銘の棟札が現存しています。後に、江戸入府を果たした徳川家康からは、自社の所領を確定させた公的文書の御朱印状を賜り、以後代々の将軍に社領を認められ、将軍家光の代には朱印高六石を賜わったといいます。
当社は、かつては、北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめており、江戸時代には、武蔵国の総社である府中市の大國魂神社の祭事に出席し、神楽を奉納した記録があります。近代には、近隣で唯一の郷社となり、氏子を中心に広く信仰を集めてきました。主な祭りは、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)であり、中でも例大祭は最も盛大で、多くの神楽が奉納され、午後に行われる「天下祭」では、天狗(猿田彦命)を先頭に行列が参道を歩み、神話の天孫降臨になぞらえて五穀豊穣・家内安全を祈願します。
境内には、本社とは別に、複数の神社が合祀されている「境内社」があり、合わせて十七社が祀られています。道を挟んで境内の南側にある「神泉」といわれる池には中央に島があり、「市杵島比売命」を祀る厳島神社が鎮座しています。厳島神社の石祠(ほこら)には水の神ともいわれる「弁財天」の文字が刻まれており、かつては干ばつが続くと氏子が桶を持ち寄り雨乞いをしたといいます。(坂戸市教育委員会掲示より)

「埼玉の神社」による大宮住吉神社の由緒

大宮住吉神社<坂戸市塚越二五四(塚越字御門)>
当社は、越辺川右岸の低地からやや上がった所に鎮座している。また、社の北側低地は、往時、河川乱流地帯で現在でも大雨が続くと一面水場となる。
創立については、社記によると村上天皇の御代、天徳三年(九五九)三月二三日に当国住人、山田長慶が村人の水害や干害の苦しみをのぞかんがため、長門国豊浦郡勝山村楠野に鎮座する官幣の社住吉神社の分霊をこの地に奉遷したのが始まりであると伝えている。
康平年間(一〇五八~六五)、八幡太郎義家が奥州征討の際此地に訪れたが、越辺川・荒川の増水により、渡ることができぬまま滞陣し、村の西方にある古塚に腰をかけた。このため、この地を塚越と呼ぶようになり、後に変じて塚越と書くようになったと伝える。義家は、この時、当社に逆徒征討祈願を行うとともに「干満祭」と称して河川減水祈願祭を行い、陣鉦一面を献納した。
治承四年(一一八〇)、下総国千葉介常胤は、当社が「和歌三神」を祀り、歌道の神として霊験があることから社参し、「あとたれて いく世やふりぬすみよしの 宮居はさらに神さびにけり」と、和歌一首を色紙に認めこれを奉献した。
次いで文治三年(一一八七)、源頼朝の命によって当社は北武蔵十二郡の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭となった。また、源家の遠祖義家が当社に祈願を行っていることから、当地に義家の御霊を勧請し、塚越神社を建立、この折に社領と獅子頭二頭が奉献された。
永享元年(一四二九)九月一五日、鎌倉公方足利持氏は、当社の社殿を再建した。これは現存する棟札により確認することができる。この時、当社は、既に勅願所であり、神職は大宮司因幡守勝呂重直であった。この永享元年は、京都で足利義教が六代将軍に就いた年で、幕府と不和であった持氏は将軍に反抗し、これを戒めた関東管領上杉憲実とも不和となり、憲実は本国上野国に籠居、ついに持氏は永享一〇年(一四三八)永享の乱を起こしたのであった。十二郡神職触頭であった勝呂家の奉仕する社を再建したことは、自らの地位の安定を計る手だてであったとも考えられる。
下って慶長七年(一六〇二)、徳川家康の江戸入府に伴い、当社は先規により北武蔵十二郡の下知が下るとともに、毎年二月二三日に十二郡の配下の神職を集め、治国平天下の祈願を執り行うように命ぜられ、白銀及び調度品数品が献上された。
慶長一五年(一六一〇)には、地頭村越与惣右衛門、次いで元和九年には、近藤勘右衛門が社殿を修営した。
また、慶安二年(一六四九)、二代将軍徳川家光より朱印地六石を賜り、これより代々の将軍に社領を安堵され、近隣の武士たちからも崇敬厚く、社頭は幕末まで栄えた。
明治四年、旧川越県の区制を定める時に、第一〇区の郷社に列したが、同五年社格制定の折、村社となった。このため、神職・氏子崇敬者などは社格昇格のため尽力し、太々講の講員増加に努めるとともに社頭を整備し、ついに大正一五年、再び郷社に列することができた。
また、明治一〇年と同四一年の二回合祀が実施され、初めは塚越神社、次いで国分神社・八幡神社・八坂稲荷神社が境内に合祀された。
祀職は、代々勝呂家が奉仕しており、社記により、貞和四年(一三四九)からの勝呂家系譜が確認できる。歴代の神職名を挙げると、勝呂式部少輔重胤・主計頭胤次・主水正盛晶・因幡守重直・筑後守正吉・筑後守吉直・高麗伊勢守吉次・勝呂主膳盛次・日向守重次・安芸守重久・伊勢守重家・安芸守邦教・摂津守重則・安芸守重敬・土佐守盛義・美胤・一・稔となる。口碑によると当家の墓地は当社一の鳥居に向かって右に神道墓地、左に仏教墓地があり、神道墓地が神職である当主の墓、仏教墓地が当主の妻及び家族の墓であるという。
また、勝呂家は、北武蔵-入間・高麗・比企・男衾・大里・秩父・幡羅・榛沢・賀美・児玉・埼玉の神職触頭として各社の神職を支配し、下っては吉田家の出先としての仕事も行っていた。貞亨三年(一六八六)の「北武蔵十二郡社家衆判形改帳」には六〇社家の姓名と奉仕神社が記載され、当時の支配関係を知ることができる。(「埼玉の神社」より)


大宮住吉神社所蔵の文化財

  • 坂戸の大宮住吉神楽(国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財)

坂戸の大宮住吉神楽

大宮住吉神楽は、江戸里神楽の影響を色濃く残した神楽で、物語を身振り手振りで表現する無言の劇のようなところがあり、演劇性の高い神楽です。神楽の持つ豊かな物語性によって、永く土地に根付き、人々に伝承されてきたものと考えられます。
「坂戸の大宮住吉神楽」は、埼玉県指定無形民俗文化財(昭和五十二年三月指定)であるとともに、平成二十二年三月十一日には、国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択を受けた大変貴重な神楽です。
大宮住吉神楽は、天照大神までの神話を題材にした「十二神楽」とその他の神話や茶番狂言のような十座の「座外神楽」の演目で構成されています。
古い記録によると、県内の児玉郡神川町の金鑽神社を中心とした金鑽神楽が、宝暦年間(一七五一~一七六四)に大宮住吉神楽から古代神楽を伝授されたと伝わっており、大宮住吉神楽の成立は少なくともそれ以前にさかのぼるものと考えられます。
当初は神主によって神楽が奉納されていましたが、明治以降、氏子男子の有志によって引き継がれ、現在は「大宮住吉神楽保存会」が組織されて氏子を始めとした神楽師によって、神楽の保存・継承が図られています。
神楽の奉納は、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)で行われ、中でも四月の例大祭は最も盛大で、午前中から夕方まで様々な神楽の座(演目)が色とりどりの面と衣装を身に付けた神楽師により奉納されています。(坂戸市教育委員会掲示より)

大宮住吉神社の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)