脚折白鬚神社。鶴ヶ島市脚折町の神社

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脚折白鬚神社。霊亀年間に勧請された白鬚神社の一社

脚折白鬚神社の概要

脚折白鬚神社は、鶴ヶ島市脚折町にある神社です。脚折白鬚神社は、霊亀年間(715-717)に高麗人が高麗郡に入植した際に勧請した白鬚神社の一社と伝えられ、往古は近郷七ヶ村の総鎮守として祀られていたといいます。江戸期には脚折村の鎮守として祀られ、明治維新の神仏分離に際し明治5年に村社に列格、明治40年字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀しています。雷電池で行われる脚折雨乞の神事は、国無形民俗文化財に選択されている他、旧別当寺正福院の十一面観音菩薩立像、白鬚神社棟札・銘札は鶴ヶ島市有形文化財に指定されています。

脚折白鬚神社
脚折白鬚神社の概要
社号 白鬚神社
祭神 武内大神、猿田彦命
相殿 -
境内社 境内社合殿(稲荷社、諏訪社、天神社、疱瘡社、八幡社、愛宕社、神明社)、社家祖霊社
祭日 初午祭2月、祈年祭4月3日、雷電様8月8日
住所 鶴ヶ島市脚折町6-10-20
備考 -



脚折白鬚神社の由緒

脚折白鬚神社は、霊亀年間(715-717)に高麗人が高麗郡に入植した際に勧請した白鬚神社の一社と伝えられ、往古は膝折・太田ヶ谷・羽折(上新田)・和田(膝折)・高倉・大六道(上新田)・小六道(中新田)七ヶ村の総鎮守として祀られていたといいます。江戸期には脚折村の鎮守として祀られ、明治維新の神仏分離に際し旧別当寺正福院は復職、明治5年に村社に列格、明治40年字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀しています。

境内掲示による脚折白鬚神社の由緒

白鬚神社
白鬚神社は奈良時代に武蔵国に移住し、この地を開拓した高句麗人が崇敬した神社で、旧入間郡内に二十数社あった。
当社の祭神は天孫降臨の道案内をした国津守の猿田彦命と神功皇后の半島出兵で功のあった武内宿彌の二柱である。両神とも老翁の姿で現れることから長寿の神ともいわれている。
神域は棟札によると、臑折(脚折)、太田ヶ谷・針[うかんむりに居](羽折)・和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)に広がり、七ヶ村の総鎮守であった。
御神木は社叢裏手にそびえる樹齢約九百年といわれる県指定天然記念物の大欅である。
また、四年に一度行われる国選択無形民俗文化財「脚折雨乞」の巨大な龍神は当社で入魂された後、渡御に向かう。(鶴ヶ島市掲示より)

新編武蔵風土記稿による脚折白鬚神社の由緒

(臑折村)
白髭社
村の鎮守なり、例祭九月廿九日、往古は膝折・太田ヶ谷・羽折[此村今はなし]・和田[膝折村の小名]・高倉・大六道[今の上新田村なりと云]小六道[今の中新田村なりといふ]七ヶ村の總鎮守と載たれど、今は當村及び當村の新田の鎮守となれり、社後に大槻一株あり、圍一丈七尺に餘れり、本山修験正福院の持、
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正福院
八幡山と號す、本山修験、篠井村観音堂配下なり、 (新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による脚折白鬚神社の由緒

脚折字下向に所在する。通称は白鬚明神、明神様。旧社格は指定村社。祭神は武内大神と猿田彦命。本殿裏手にあるご神木のケヤキは、周囲約八メートル、樹齢九〇〇年といわれ、県指定天然記念物に指定されている。
創立年紀は不詳であるが、社記などによると、霊亀年間(七一五-七一七)高麗人帰化の際に白鬚神社数社を勧請したが、当社はその一つであるという。社蔵の棟札に「白鬚大明神本地十一面観音七ケ村惣社臑折太田谷針窖和田高倉大六道小六道当所之鎮守/于時天正二甲戌年九月吉日」とあり、広く崇敬を集めていたことが窺える。社蔵の「御年貢皆済目録」によると、明治二年まで毎年鎮守御供米が二俵ずつあった。
本殿は、流造向拝付で屋根は板葺、建造年月は不詳である。覆殿は入母屋造で屋根は瓦葺(昭和二九年に萱葺を改める)、拝殿、鳥居とともに宝永七年に再建された。
先に挙げた棟札以外にも、近世の棟札七枚が所蔵されている。また、白鬚明神の本地仏とされる木造の十一面観音立像は、中世に作られた出色の仏像であり、市指定文化財とされている。社蔵の鏡も一四世紀鋳造と推定される見事なものである。
祀職は別当本山派修験正福院の裔、宮本家が代々務めている。宮司宅に所在する「源氏家平野系図」によると、文明二年(一四七〇)より四代にわたり八幡山世代と称される人々が続き、元亀二年(一五七一)に平野弥次郎源重朝がそれを継いでいる。平野弥次郎は落ち武者で、兄弟である後の脚折村前方組の名主家の祖とともに、平野イツケの祖となっている。明治二年に復職し、平野姓を宮本に改めた。屋敷内にあった不動堂は脚折村新田の当山派修験者の庭に移された。社家に対する呼称としてはオミヤンチ(=お宮の家)、当主などがある。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)

「埼玉の神社」による脚折白鬚神社の由緒

白鬚神社<鶴ケ島町脚折一七一五(脚折字下向)>
脚折は越辺川の支流飯盛川上流にある。縄文期から平安期にかけての集落跡が八幡塚・宮田・上山田をはじめ数か所あり、古くから開けた所である。
社記に「天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に我が国に渡来した高麗若光王は、霊亀二年西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七ケ国に居住する高句麗の人々一七九九人を集めた。若光王は日頃崇敬していた猿田彦命と武内宿禰を白鬚大神と称して高麗郡の中央に祀り郡内繁栄を祈り、また郡下に数社を祀る。当社はこのうちの一社」とある。
社蔵の棟札に「白鬚大明神本地十一面観音七ケ村惣社臑折大田谷針宮和田高倉大六道当所之鎮守・于時天正二甲戌年九月吉日」があり、広く崇敬されていたことがうかがえる。
社蔵文書「年貢皆済目録」に鎮守御供米二俵とあり、領主の崇敬が厚かったことが知られる。
一間社流造りの本殿は、宝永七年の再建であり、内陣に白幣及び十一面観音を安置する。
明治五年に村社となり、同四〇年には字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀する。(「埼玉の神社」より)


脚折白鬚神社所蔵の文化財

  • 脚折白鬚神社十一面観音菩薩立像(市指定有形文化財)
  • 白鬚神社棟札・銘札(市指定有形文化財)
  • 大けやき(県指定天然記念物)
  • 脚折雨乞神事(国選択無形民俗文化財)

脚折白鬚神社十一面観音菩薩立像

白鬚神社の十一面観音菩薩立像は、宝冠を被り、頭上に変化面を十面備え、右手は垂下し、左手に花瓶を執り蓮台上に立つ像である。眼と額の白毫には水晶が使われ、全身には金泥が塗られ、衣の部分には金箔が貼られている。
白鬚神社所蔵の棟札・銘札から、室町時代より同社の本地仏として祀られていることが判る。また、作製技法は教材を合わせる寄木造りで、しかも正中矧ぎといって、合わせ目を正面にしている。これは万一割れが生じると正面に傷がくるので普通は側面にするのであるが、相当に自信のある作者によるものであろう。
この十一面観音菩薩立像は傷みがはげしかったため、指定当時に修復を行っている。(鶴ヶ島市教育委員会掲示より)

脚折白鬚神社十一面観音菩薩立像

白鬚神社は霊亀年間(七一五~七一七)高麗人帰化の際、郡内に勧請した白鬚神社数社の内の一つであるといわれている。
白鬚神社の境内にそびえる樹齢約九〇〇有余年の大けやき(県指定天然記念物)は、同社の古さを示す古木である。
同社の収蔵庫には、天正二年(一五七四)から享保十二年(一七二七)におよぶ八点もの棟札・銘札が所蔵されている。
これらの棟札・銘札からは、七か村の総鎮守であった白鬚神社の信仰圏、神仏混淆時代の本地仏などに関することのほか、地元の職人のてがかりなど、さまざまな歴史的な事柄について知ることができる。また、一五〇年余りの期間に本地仏や社殿の造立、修復が頻繁に行われていることが判り、同社に寄せられた信仰の厚さをも窺うことができる。
現在県内においては、神社の大半は確固たる由緒書を持っておらず、棟札やさまざまな奉納物の銘札などに記された銘文によって、その歴史を知りうる場合が多い。白鬚神社の棟札及び銘札についても同様であり、しかも安土桃山時代から江戸時代中期にかけて、これだけまとまって、保存されている例は県内の各神社をみても決して多いとは言えない。
この棟札及び銘札は同社の歴史はもちろん、鶴ヶ島の歴史や埼玉県の宗教史を考える上でもたいへん貴重な歴史資料である。(鶴ヶ島市教育委員会掲示より)

脚折白鬚神社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」
  • 「埼玉の神社」