大智寺。勝呂氏居館の跡地に創建
大智寺の概要
真言宗智山派寺院の大智寺は、龍護山實相院と号します。大智寺の創建年代等は不詳ながら、初代住職は日教、二代は日海だといい、当地は勝呂氏居館の跡地ではないかといいます。黒川丹波守の推挙により慶安2年(1649)寺領20石の御朱印状を拝領、黒川正直(延宝8年1680年寂)が中興したといいます。中武蔵七十二薬師23番、武州八十八所霊場29番です。
山号 | 龍護山 |
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院号 | 實相院 |
寺号 | 大智寺 |
住所 | 坂戸市石井2331 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大智寺の縁起
大智寺の創建年代等は不詳ながら、初代住職は日教、二代は日海だといい、当地は勝呂氏居館の跡地ではないかといいます。黒川丹波守の推挙により慶安2年(1649)寺領20石の御朱印状を拝領、黒川正直(延宝8年1680年寂)が中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による大智寺の縁起
(石井村)大智寺
新義真言宗、山城國醍醐無量壽院の末、龍護山實相院と號す、寺領二十石の御朱印は慶安二年賜はれり、過去帳に初代日教、二代日海とはあれども年月もなし、中興開山俊譽、是も慶長の頃住職せしとは傳ふれど、寂年もしれず中興開基は黒川丹波守正直にて、延寶八年五月二日に卒すとなり、傳に云此寺も中興せしまでは、御朱印もなく、微々たることなりしを、丹波守の推擧によりて、二十石の地を賜はるとなり、此黒川正直の父は左京助平正秀とて、比企郡吹塚村に居住せしが、正直召出されてより、江戸に移住し今に至る、黒川左京は則其子孫なり、正秀は慶長十四年七月十七日卒す、その父左京亮正忠は奥州の十人なりしが、永禄年間に故あつて吹塚村に来り住し、慶長十三年四月廿三日卒す、是より此寺を菩提所とすと寺記にも傳へしかど、享保中火災にかかり烏有となれり、思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の社にてはなきか、夫より後堀ノ内に豊前守などは住しなるべし境内のさまいかにも古蹟と思はれざれど、是らのことは口碑にも傳はらず、豊前守の事蹟は末に出す、本尊大日を安ず。
鍾樓。鐘は安永八年の鑄造なり。
文殊堂。坐像一尺許、毘首羯摩の作と云。
青龍権現社。稲荷社。
塔頭福正寺。(新編武蔵風土記稿より)
大智寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」