宗福寺。坂戸市石井にある曹洞宗寺院

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毘廬山宗福寺。勝呂氏の館跡隣接地に創建

宗福寺の概要

曹洞宗寺院の宗福寺は、毘廬山と号します。宗福寺は、平安末期以来この地を領した勝(勝呂)氏の館跡に隣接した当地に教覚(文和5年1356年寂)が開山、慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。当寺所蔵の板石塔婆は、文和5年(1356)年の銘が刻された地上高二八〇センチの大きな板石塔婆です。

宗福寺
宗福寺の概要
山号 毘廬山
院号 源光院
寺号 宗福寺
本尊 釈迦牟尼仏像
住所 坂戸市石井1905
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗福寺の縁起

宗福寺は、平安末期以来この地を領した勝(勝呂)氏の館跡に隣接した当地に教覚(文和5年1356年寂)が開山、慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による宗福寺の縁起

(石井村)宗福寺
寺領十石、慶安二年よりの御朱印なり、其文に石井村宗福寺阿彌陀堂領とあり、禅宗曹洞派、龍ヶ谷龍穏寺末、毘廬山源光院と號す、開山教覺文和五年七月廿八日示寂すと云、境内に碑あり、是を開山の碑と傳ふれど、三回忌追薦の碑なり、示寂の傳齟齬せり、然らば五年の寂か其碑漫滅して讀得ざれども、其見ゆる住吉神職勝呂雅楽の傳へに、豊前守は永禄の頃此地に住し、小田原北條に屬し、北条没落の後上総國久留里に移り、里見家に仕へたりと、されば豊前守は中興開基なるか、御打入の後の開基を神谷彌五助と云、寛永元年五月四日卒す、即境内に墓碑あり、寺記に此彌五助は勝呂郷七ヶ村、其外相模國小机領十八ヶ村の地領たりしと、是は疑しきことなり、殊に小机領は武州なり、慶長の頃御代官に神谷彌五郎と云者ありて、都築郡の村々を支配せしことものに見えたり、此等の誤にてはなきか、中興開山の僧は大寶徹公、慶長十二年八月十四日示寂す、本尊彌陀坐像一尺五寸、惠心の作、この外地蔵の像あり、是を運慶の作と云、境内に康平二年五月三日観應二年十月と彫たる古碑あり、又延徳二年七月十四日妙全禅尼とえるもあり。
鍾樓。元文年中の鐘をかく。
白山稲荷合社。(新編武蔵風土記稿より)


宗福寺所蔵の文化財

  • 石井宗福寺の板石塔婆

石井宗福寺の板石塔婆

宗福寺の開山教覚の三回忌に造立されたこの名号板碑は、文和五年(一三五六)七月二十八日の紀年銘をもつ地上高二八〇センチ、幅六七センチという巨大なもので材質は緑泥片岩である。
六字名号板碑の密集地としては県下でもめずらしい勝呂地区にあって、この板碑は大きさといい風格といい、まさに代表的な逸品といえよう。
宗福寺は平安末期以来この地を領した勝氏の館跡に隣接して建立されたが、地元豪族の庇護を受けた遊行の聖がこの地にとどまり、鎌倉末から南北朝期に道場を設けて多くの民衆に念仏を広めたと考えられる。
その意味でも今後、一遍上人の開いた時宗の発展を研究するうえで、この板碑のもつ意味は極めて大といえよう。(坂戸市教育委員会掲示より)

宗福寺の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」