満福寺。太田ヶ谷学校開校地、武州八十八所霊場
満福寺の概要
天台宗寺院の満福寺は、慈眼山喜見院と号します。満福寺の創建年代等は不詳ながら、文永年間(1264-1275)創建の創建と伝えられ、天正元年(1573)に僧舜清が中興したといいます。いつしか寺山遺跡から当地へ移転、江戸期には太田ヶ谷に鎮座していた鎮守熊野社や伊勢社・山王社の別当を勤めていた他、寺子屋が開設され、明治6年には当寺本堂が供用されて太田ヶ谷学校が開校しています。なお、旧地寺山は、お寺山遺跡と呼ばれ、中世の墳墓が確認された他、板碑・宝篋印塔などが確認されているそうです。武州八十八所霊場66番、武蔵国十三仏霊場です。
山号 | 慈眼山 |
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院号 | 喜見院 |
寺号 | 満福寺 |
住所 | 鶴ヶ島市太田ヶ谷487 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
満福寺の縁起
満福寺の創建年代等は不詳ながら、文永年間(1264-1275)創建の創建と伝えられ、天正元年(1573)に僧舜清が中興したといいます。いつしか寺山遺跡から当地へ移転、江戸期には太田ヶ谷に鎮座していた鎮守熊野社や伊勢社・山王社の別当を勤めていた他、寺子屋が開設され、明治6年には当寺本堂が供用されて太田ヶ谷学校が開校しています。なお、旧地寺山は、お寺山遺跡と呼ばれ、中世の墳墓が確認された他、板碑・宝篋印塔などが確認されているそうです。
境内掲示による満福寺の縁起
当寺は慈眼山喜見院と号し、天台宗の寺院で、古くは入間郡小仙波村(現川越市)の中院の末寺であった。寺院の開山、開基は伝えられていないが、天正元年(一五七三年)に僧舜清が中興したという。寺はもと、水田を隔てた東方の寺山にあったというが、いつの頃現在地に移されたのか、詳しいことは伝えられていない。
本尊は千手観音で、ほかに不動明王、聖天、辨天、荼枳尼天(わが国では稲荷権現と同一)をまつっている。毎年三月三日に大般若経会が開かれているが、古くは信者たちが大勢集り、たいへんな賑わいをみせたという。
寺内には子育て地蔵があり、古くから近在の人々の厚い信仰をえているが、今もお参りをする人々があとをたたない。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による満福寺の縁起
(太田ヶ谷村)
満福寺
慈眼山喜見院と號す、天台宗入間郡仙波中院末、開山開基を傳へず、本尊千手觀音を安ず、(新編武蔵風土記稿より)
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による満福寺の縁起
大字太田ヶ谷字新田に所在する。慈眼山喜見院満福寺と号する。宗派は天台宗で、比叡山延暦寺の末寺である。本尊は千手観音。
開山開基は不明であるが、文永年間(一二六四~七五)創立、天正元年(一五七三)僧舜清中興、元禄年中(一六八八~一七〇四)の僧秀全中興などと伝えられる。寺の付近、特にその前身が所在したとされるお寺山遺跡からは、多数の中世の墳墓が確認された他、板碑、宝篋印塔、蔵骨器、土器などが出土している。なお、川越市にある古刹中院の過去帳によれば、太田ケ谷の草分けとされる内野図書の内室妙幸尼という者が、文明三年(一四七一二月に死去したとある。これらのことから、少なくとも中世の比較的早い時期には、満福寺のあたりにすでに寺の前身となる施設が存在したと考えられる。
中院の四ケ末寺の一つであり、寺院明細帳によると、周辺に末寺として常福寺、護国寺、長泉寺を抱えていたという。常福寺は、内野図書の菩提寺として、文正元年(一四六六)に創建、寺号は図書の諱である常福にちなむとされる。中院の末で、功徳山青蔵院と号し、本尊は阿弥陀如来。寛政年中(一七八九~一八〇一)より寺務を満福寺で兼ね、明治六年に廃寺となった。護国寺、長泉寺については不明である。ただし長泉寺は藤金に所在した長龍寺の誤記と思われる。長龍寺は中院の末寺であったが、近世末には天台宗羽黒派として江戸の普門院末となり、大正期には廃寺となっている。
寺の本堂前庭には、今は枯死した町指定天然記念物の枝垂れ桜があった。樹齢三百余年のこの老桜樹は、川越喜多院の将軍桜の子を移したものであったという。
また、寺には古くからの鐘楼がある。この鐘楼の鐘は、明和元年(一七六四)に鋳造されたものであったが、戦時中に金属資源として供出されたため、現在の梵鐘は二代目ということになる。
近世後期には満福寺で寺子屋が開設されていた。後に明治六年には寺の本堂を仮校舎として太田ヶ谷学校が設けられた。『郡村誌』には、その当時の生徒数は男三八人、女七人であったと記されている。
明治になって、それまでは中院を本寺としていたが、比叡山延暦寺を本山とするようになった。「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)
満福寺の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」