青柳氷川神社。狭山市青柳の神社

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青柳氷川神社。狭山市青柳の神社

青柳氷川神社の概要

青柳氷川神社は、狭山市青柳にある青柳氷川神社です。青柳氷川神社無の創建年代等は不詳ながら、青柳が開発された際に大宮氷川神社を勧請したと伝えられ、江戸期には村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年に、小字第六天の第六天神社と神田前の稲荷社を合祀しています。

青柳氷川神社
青柳氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命
相殿 -
境内社 稲荷神社、浅間神社、大六天
住所 狭山市青柳475
祭日 元旦祭・祈年祭・春祭り・夏祭り・秋祭り・新嘗祭・星祭
備考 -



青柳氷川神社の由緒

青柳氷川神社無の創建年代等は不詳ながら、青柳が開発された際に大宮氷川神社を勧請したと伝えられ、江戸期には村の鎮守として祀られていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年に、小字第六天の第六天神社と神田前の稲荷社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による青柳氷川神社の由緒

(青柳村)
氷川社
村の鎮守なり、村内来光寺持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による青柳氷川神社の由緒

氷川神社<狭山市青柳四七五(青柳字東馬知屋敷)>
当社は不老川の支流である久保川の北岸に位置する。
社の創立は、この村を開いた折、丘陵から流れ出る久保川を潅漑用の唯一の水源として尊重し、大官の氷川神社からこの期のほとりに勧請したものと伝える。祭神は須佐之男命である。
社叢はもと杉・槍の大木が社殿裏手に林立し、氏子は氷川様の森と親しんでいた。
『風土記稿』によると当社は村の鎮守で、別当は来光寺が務めていた。同寺は真言宗勝呂大智寺末で青柳山無量院と号していた。明治初めの神仏分離により別当は廃され、明治五年に村社となる。
この時、一反二畝ほどの寺の跡地は大字の所有となり、その後、お寺新田と称していた。更に、この寺に属していた檀家は宗旨替えをし、禅宗東陽寺の檀家となった。
明治四〇年には、小字第六天の第六天神社と神田前の稲荷社を合祀し、この跡地は農地解放まで畑地として氏子に貸し付け、小作料を徴収して、神社運営費に充てていた。
境内社の浅間社は、昭和四〇年ごろまで、当社東側に鎮座していたが、道路拡張に伴い移転されたものである。(「埼玉の神社」より)


青柳氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿