白鬚神社(柏原)。狭山市柏原の神社
白鬚神社(柏原)の概要
白鬚神社(柏原)は、狭山市柏原にある白鬚神社(柏原)です。白鬚神社(柏原)無の創建年代等は不詳ながら、当社に残されている懸仏に天正18年(1590)の銘が残されていることから、安土桃山時代以前より鎮座、白鬚社と号していたといい、柏原村の鎮守社だったといいます。明治45年字鳥ノ上の稲荷社・字城ノ腰の稲荷社・字北本の稲荷社を合祀し、境内に稲荷神社を建立、字北本宿の八坂社を合祀・当社境内社の神明社・愛宕社を併せて八坂神社を建立、字半貫の日枝社・字高根の高根社・当社境内社の富士嶽社を併せて日枝浅間神社を建立したといいます。
社号 | 白鬚神社 |
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祭神 | 猿田彦命 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽社、八坂社、稲荷社、日枝浅間社 |
住所 | 狭山市柏原1153 |
祭日 | - |
備考 | - |
白鬚神社(柏原)の由緒
白鬚神社(柏原)無の創建年代等は不詳ながら、当社に残されている懸仏に天正18年(1590)の銘が残されていることから、安土桃山時代以前より鎮座、白鬚社と号していたといい、柏原村の鎮守社だったといいます。明治45年字鳥ノ上の稲荷社・字城ノ腰の稲荷社・字北本の稲荷社を合祀し、境内に稲荷神社を建立、字北本宿の八坂社を合祀・当社境内社の神明社・愛宕社を併せて八坂神社を建立、字半貫の日枝社・字高根の高根社・当社境内社の富士嶽社を併せて日枝浅間神社を建立したといいます。
新編武蔵風土記稿による白鬚神社(柏原)の由緒
(柏原村)白髭社
村の鎮守なり、別當は鎮護山宮本院社地に住居せり、本山修験、篠井村観音院配下なり、本尊不動を安ず、當社の神體は白幣、本地は十一面観音にて、鐵圓鏡に鑄造せし佛像五面あり、その銘文二面は天正十八年、二面は同十九年、一面は慶長十六年とえる、施主村内にて吉田氏のもの一面、その他は當村大工神田氏なるもの奉納なり、社地樹木森茂す、中に大なるものには槻一株、圍二丈三尺ばかり、樫一株、圍一丈五尺許、古社たることおしてしるべし。
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天王社
宮本院持、これも村の鎮守なり、社の傍に神體と稱する槻あり、圍二丈三四尺、これも古跡と見えたり。
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稲荷社
熊野社
山王社
以上三社、圓光寺持。
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稲荷社
鷲ノ宮と號す、上杉家勧請のよし、常楽寺の持。
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高根社
石の祠に安ず、祭神は木花開耶姫命なり、小山坊の持なり。
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山王社
長源寺の持。
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神明社
稲荷社
以上二社宮本院の持。
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神明社
村民庄兵衛が持なれ共、別當は常楽寺なり、庄兵衛が先祖は、應永の頃の鎗鍛冶にて、神明に金山彦を配祀すと云、社後に神木と稱する槻あり、圍二丈三尺許り。
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劔明神社
里正武兵衛が持なり、寶永年時に武兵衛が曾祖父某屋舗、後に井を穿ちて一圓鏡を得たり、正面に劔形を鑄造し、上に梵字、下に劔明神、右に文明元年二月廿八日左に柏原住人と鐫せり、是を神體とせしに、故ありて失たれば、別に圓鏡を鑄てかへ置り、それも舊きことにや、鏡面に梵字一字及び文明十八年十一月十五日、武州柏原住人又三郎と刻す、依て今安置する神體は、古鎧を模して木にて製せるなり。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による白鬚神社(柏原)の由緒
白鬚神社(狭山市柏原一一五三)柏原村字北本宿
『風土記稿』によれば、社地には樹木が茂り、その中に周囲二丈余りの槻の大木や周囲一丈五尺余の樫の大木があることから古社であると記されている。また、これに続いて篠井村の観音堂配下本山派修験鎮護山宮本院が当社の別当を務め、不動尊を祀り、神体は白幣、本地は十一面観音とある。この十一面観音は懸仏になっており、現在、五面保管されている。最も古い懸仏の銘文には「大日本国武州高麗郡柏原村住施主神田市右衛門 于時天正十八年庚寅十二月廿一日大工神田宮内」と刻してあることから、当社の創立もこれ以前であったことがわかる。
明治四五年に字鳥ノ上の稲荷社、字城ノ腰の稲荷社、字北本の稲荷社を合祀し、境内に稲荷神社を建立した。また、字北本宿の八坂社を合祀し、当社境内社の神明社、愛宕社を併せて八坂神社を建立した。更に、字半貫の日枝社と字高根の高根社を合祀し、当社境内社の富士嶽社を併せて日枝浅間神社を建立した。
祀職は、代々宮本家が務めている。奉仕者の氏名が確認できるのは、寛文九年本明院永香が別当職に任命されてからで、その後、宮本院秀作、深秀、長慶、良信、良秀、宰相と奉仕を続け、次の信弘の時、神仏分離を迎え、明治二年に復飾し神職となり、姓を宮本と名乗った。以来、十守、金吾、信広、義弘、重信と継いでいる。(「埼玉の神社」より)
白鬚神社所蔵の文化財
- 白髭神社韋駄天の額(狭山市指定有形文化財)
- 御正体(懸仏)(狭山市指定有形文化財)
- 柏原祇園囃子(狭山市指定無形文化財)
- 絵馬「子返しの図」(狭山市指定有形文化財)
- 絵馬「陰陽和合図」(狭山市指定有形文化財)
白髭神社韋駄天の額
この「韋駄天の額」は、絵馬の様式を持つ絵画で、幅一七九センチメートル、高さ一三一戦地メートルという県下には類例を見ない大きなものです。筆者名の墨書がありますが、古くて不明です。ただ手書きの印に竹翁とあるところから、勝田竹翁の作品であろうと思われます。竹翁は名を貞観、字を陽渓といい、寛永七年(一六三〇)に幕府表絵師に任ぜられ筆勢雄渾な画風により一派をなした人で享保四年(一七一九)にはまだ在世していたとの説もありますが、この額は裏面に「明和三年丙戌年六月十五日納之者也」と墨書してあるところから、竹翁の死後誰かが白髭神社に奉納したものでしょう。
韋駄天とは、護法神・伽藍守護神として寺院にまつられるものですが、魔王が仏舎利を奪って逃げたとき追いかけて取り返したという話から、足の速い者のことも韋駄天というようになりました。この額のエも韋駄天が宝棒をふりあげて魔王を追いかけているところの彩色画です。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
御正体(懸仏)
御正体とは、神社の御神体である鏡に仏の姿を現したもので懸仏とも呼ばれています。
これは神仏混淆の時代に、本地垂迹説(仏が化身として、日本の神の姿をして現れたとする説)に基づいて造られたもので、当神社の祭神は猿田彦神ですが、御正体は五面とも十一面観世音菩薩像となっています。
これらは、天正十八年(一五九〇)から慶長一六年(一六一一)にかけて、旧柏原村の鋳物師・神田氏によって鋳造されたもので、歴史的にも、文化的にも価値の高いものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
柏原祇園囃子
柏原祇園囃子は、入間市高倉から伝えられたといいます。
このお囃子は、柏原の八坂神社(白髭神社境内社)で行われる夏祭り「天王さま」で演奏されます。
かつては、村祭りの囃子として村の有志が囃子を演奏したといわれ、組織的な伝承団体はありませんでした。
昭和三十年代の半ばに「天王さま」の行列は中止になり、道中は祇園囃子の録音テープを流し、神酒所で囃子が奉納されるだけとなりましたが、昭和四十八年に「郷土芸能を学ぶ会」(現柏原郷土芸能会)が結成され、組織的に継承されるようになりました。
お囃子の巡行は、底抜け屋台に大胴一台、附太鼓一台をつけ、数名のかつぎ手によって屋台をかつぎ、笛吹きは屋台の脇で、太鼓は屋台の中を歩きながら叩いたものでありましたが、昭和五十年に車付き屋台が完成してからは、大胴一台・附太鼓二台をつけ、演奏者は屋台に乗り巡行しています。
曲目は、送り(オクリ)と四丁目(シチョウメ)の二曲があり、送りは「一の切り」から「六の切り」までの六つの旋律を神輿の行列が進行している時に繰り返し演奏し、笛は多数で一緒に吹きます。
四丁目は、神酒所に到着するときに演奏し、曲は添付がはやく、この時の笛は一人で吹きます。
天王さまは現在、毎年七月十五日に近い日曜日に、行われています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
絵馬「子返しの図」
「子返し」とは口減らしをすることで「間引き」ともいいます。
この絵馬には産まれたばかりの我が子を「子返し」する女性とその心の姿が「鬼女」として描かれており、表面上部には墨書で、
「足らぬとて まひくこころの 愚かさよ 世に子宝と いふをしらすや」
「罪は身に むくふとしりて 天よりそ さつけたまはる 子かえしをする 願主 児玉新五郎」
と記され、「子返し」を戒める内容になっています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
絵馬「陰陽和合図」
この絵馬は、富士信仰の生命観を描いたものです。
富士信仰では、月と日(太陽)は三十日に一度重なり合って地球をめぐることから、生命の誕生に関係があると考えられていました。
絵馬の表面上部に描かれた月・日からそれぞれ三本の線が伸び、中央の子どもとその両脇に描かれた女・男に繋がっています。
また墨書で、
「月と日の 晦日の契りなかりせば 人のたねには 何かなるへき 願主 小谷野勝平」
とあり、富士信仰の教義の内容を絵馬に記したものと考えられます。
この二つの絵馬は、柏原白髭神社境内にある浅間神社に奉納されたもので、社殿内陣向かって左側に「子返しの図」、右側に「陰陽和合図」が掛けられていました。それぞれ桐材に着色され、大きさは縦四十四・三cm、横八十一・七cmを測り、製作の時期は江戸時代末期と推定されます。同時期に同じ手法で造られ、描かれた意味・内容から二つの絵馬は一対をなすものとみなすことができます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
白鬚神社(柏原)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿