久保稲荷神社。愛宕神社宮司守屋伊豆守が伏見稲荷大社を勧請
久保稲荷神社の概要
久保稲荷神社は、入間市久保稲荷にある久保稲荷神社です。久保稲荷神社は、天文13年(1544)旧社地の老桜の根方に二匹の白狐が現れ、その姿を不思議と感じた村人が社を祀ったことに始まると伝えられ、同年愛宕神社宮司守屋伊豆守が京都の伏見稲荷大社の御分霊を勧請したといいます。狐塚及び手水鉢は多くの崇敬者により奉納されたもので、入間市有形文化財に指定されています。
社号 | 久保稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | 大山祇命、大市姫命 |
境内社 | - |
祭日 | 例祭3月15日に近い日曜日 |
住所 | 入間市久保稲荷4-3-23 |
備考 | - |
久保稲荷神社の由緒
久保稲荷神社は、天文13年(1544)旧社地の老桜の根方に二匹の白狐が現れ、その姿を不思議と感じた村人が社を祀ったことに始まると伝えられ、同年愛宕神社宮司守屋伊豆守が京都の伏見稲荷大社の御分霊を勧請したといいます。
境内掲示による久保稲荷神社の由緒
当神社の創祀は天文十三年、京都の伏見稲荷大社の御分霊を守屋伊豆守(元愛宕神社・宮司)が勧請した事に始まる。(敬愛掲示より)
「埼玉の神社」による久保稲荷神社の由緒
久保稲荷神社<入間市久保稲荷四-三(扇町屋字久保)>
扇町屋は古くから交通の要所で、地内を、八王子千人同心が往来した日光裏街道と青梅から川越に至る青梅川越線が走っている。『武蔵志』には「民野土連軒又散住ス耕同土目皆畑野林アリ」加筆して「市ハ三八」とあり、更に、『風土記稿』には「町の間長六町許、道幅八間程、左右に軒を連ね戸数都て九十軒、三八の日毎に市立て穀物など売鬻ぐ」とあり、にぎわったことを伝えているが、明治初年鉄道沿線から外れやや落ちこんでいる。
当社は、天文一三年旧社地の老桜の根方に二匹の白狐が現れ、その姿を不思議と感じた村人が社を祀ったことに始まり、この桜を白狐桜と呼ぶと伝えられる。また、社記には「天文十三年六月新田神社の祠官守屋伊豆守同社の社号勅許願に上京の際、京都稲荷山に参詣し当社を分霊す、この折の安鎮の証及び古剣一口現存す」と記している。
一方、神徳について、社記に「天明六年氏子鈴木某奇病に罹り医薬の功なく当社に祈るとたちまち全快す以来崇敬する人多し」とあり、また『川越素麺』に「宝永年中雑魚売長兵衛という者、常々大酒無法の者であったが、買出しの小魚を当社に初尾として二、三尾ずつ上げるのを常としていた。或る時狼が出て危く喰われる所を、この稲荷の擁護により助かった」と紹介している。
明治四〇年、大字善蔵新田字富士見台の稲荷神社を合祀する。(「埼玉の神社」より)
新編武蔵風土記稿による久保稲荷神社の由緒
(扇町屋村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)
久保稲荷神社所蔵の文化財
- 久保稲荷神社の狐塚及び手水鉢(入間市指定文化財)
久保稲荷神社の狐塚及び手水鉢
狐塚は、二の鳥居の左右二箇所に、溶岩によって築かれた一対のもので、それぞれの塚の上には狐像が置かれている。天保十三年(一八四二)初秋に、入間川むら(現狭山市)や扇町屋村(入間市)在住の四人が世話人となり、扇町屋村、堀兼村(狭山市)、飯能村(飯能市)や巣鴨(豊島区)、浅草新寺町(台東区)、神田元岩井町(千代田区)、四ツ谷塩町(新宿区)等、近郷近在及び江戸まで広がる地域の人々一〇二人により奉納された。
塚の築山は巣鴨の植木屋仙太郎、狐像の彫りは新川(江戸川区か)の石屋勘兵衛による、塚上の奉納碑の書は巻菱湖、奉納者名の碑の書は春斎、碑文の字彫りは扇町屋村の石工の安藤茂兵衛によるものである。
茂兵衛が自ら名を刻んだ石造物も一〇基は超える。茂兵衛の字彫りには、書家の原書の筆致を彷彿させる巧みさが見られる。
いずれも江戸時代後期に、久保稲荷神社が地元のみならず広い地域から信仰されていた様子を伝える貴重な資料である。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
久保稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿