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清水八幡宮。狭山市入間川の神社

清水八幡宮の概要

清水八幡宮は、狭山市入間川にある清水八幡宮です。清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。

清水八幡宮
清水八幡宮の概要
社号 清水八幡宮
祭神 木曽清水冠者義高公
相殿 -
境内社 -
住所 狭山市入間川3-35
祭日 -
備考 -



清水八幡宮の由緒

清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。

新編武蔵風土記稿による清水八幡宮の由緒

(入間川村附新田)八幡社
昔は今の河原の地平地にして、其所に此社ありしが何の頃か、洪水に岸崩れて一圓に河原となりし故、此所に移せしと云、此社木曾義仲の嫡子志水冠者義高の靈を祀りしと云、法體の姿にて團扇を採てたてる像を安ず、義高は事は【東鑑】等の書にも出て、世にしる所なり、石の祠にて三面に義高が事跡を彫る、其文に呼元暦甲辰春哉、義中男賴朝婿志水義高、遙聞於父之伏誅出鎌倉、舎走鎌形舘追兵迫而圍于此、入間河原□長堀氏親家馘冠者逝矣、郷民埋骸樹槻而爲檀焉、外姑平政子悲己、如斯報號志水八幡也、應永洪水潰廟抜木、大凶其迹故録其傳於槻、其石之小祠以徴討古之信、永享二庚戌之春日建也、其標近代造りしものと見えたり。成圓寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による清水八幡宮の由緒

宗教法人でないため、記載なし(「埼玉の神社」より)

境内掲示による清水八幡宮の由緒

源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女巴との間に生まれた嫡子で、比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷であり、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。
義仲が治承四年(一一八〇)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永二年(一一八三)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(六才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政子との間にできた娘大姫の婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した範頼、義経軍に敗れ、寿永三年一月二〇日粟津原の戦に討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置することも出来ず「娘をくれておくのも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。寿永三年四月十六日元歴と改元されその月の二十日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士六名ばかりと共に、祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(菅谷館)である現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中・所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。
かくて寿永三年四月二十六日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり漿水を絶つに及んで間もなく十四才を以て死亡せり。母なる政子は頼朝の仕打を怒ると共に直接義高を刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原に祠を建てた(五月)と云う次第である。
正徳三年(一七一三)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ自ら入間川の地に来り供養をし且つ神田を寄附されたという、この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永九年八月(一四〇二)の大洪水に全てを流失したる由、亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原御殿とも言った。その後今から約一八〇年前現在地より北方三丁程の杉林中より石祠が発見され現在の処に鎮座し再建されたるものなり。
参考資料 狭山の文化財及入間川風土記
なお木曾冠者義高公の墓は、鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は常楽寺の裏山標高七十米位かと思われる場所に百平方米程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り、中心に石材の高さ四十糎の祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。
附記
常楽寺
栗船山常楽寺と号し開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ大覚禅師の初道場で、寺の名は泰時の法名常楽院殿からとったものです。また鎌倉國宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。(境内掲示より)


清水八幡宮所蔵の文化財

  • 清水八幡(市指定文化財史跡)

清水八幡

清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)

清水八幡宮の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿