氷川神社(高倉)。大宮氷川神社の遥拝所として創祀
氷川神社(高倉)の概要
氷川神社(高倉)は、入間市高倉にある氷川神社(高倉)です。氷川神社(高倉)の創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社の遥拝所として創祀、応仁4年霞川の洪水で水没、天文2年(1533)当地に再建したといいます。明治5年に村社に列格、明治40年には同大字若宮の八幡神社と浅間神社を本殿に合祀、字中ノ小路より稲荷神社を境内に合祀しています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 須佐之男尊 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡、浅間、小御嶽、秋葉、石尊 |
祭日 | 例祭7月19日・20日に近い土・日曜日 |
住所 | 入間市高倉4-4-7 |
備考 | 旧村社 |
氷川神社(高倉)の由緒
氷川神社(高倉)の創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社の遥拝所として創祀、応仁4年霞川の洪水で水没、天文2年(1533)当地に再建したといいます。明治5年に村社に列格、明治40年には同大字若宮の八幡神社と浅間神社を本殿に合祀、字中ノ小路より稲荷神社を境内に合祀しています。
新編武蔵風土記稿による氷川神社(高倉)の由緒
(高倉村附新田)
八幡社
村の鎮守にて、村民の持なり
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氷川社
是も村の鎮守なり、村持、下二社同じ。
富士淺間社
稲荷社三宇(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による氷川神社(高倉)の由緒
氷川神社<入間市高倉四-四-七(高倉字宮ノ小路)>
当地は加治丘陵の東端にあり、はずれを霞川が流れる。
『風土記稿』高倉村の項に、「八幡社 村の鎮守にて、村民の持なり。氷川社是も村の鎮守なり、村持、下二社持同じ、富士浅間社・稲荷社三宇」とある。
社記に創建を尋ねると、「当社は、往古武蔵国足立郡高鼻村の氷川神社遥拝所であったが、応仁四年霞川の洪水により、社地水没、天文二年現在地を卜して社殿を再建する」という。天文二年については、旧神体である薬師如来を打ち出した懸仏(二三センチメートル)に「日光菩薩 月光菩薩 大日本武蔵國入東郡金子郡高倉村 天文二年十二月吉日」の刻銘があり、これを裏付けている
現在の本殿は、明和五年の再建であり、棟札(一九センチメートル)に「高峯山寶行寺良真代」の銘がある。宝行寺が現宮司淵泉家の先祖で、『風土記稿』に「宝行寺 高峯山と号す、修験にて篠井村観音堂の配下」とある。篠井村は明治二二年以降笹井と称する。拝殿は文化二年の造り替えで、棟札(九六センチメートル)が残されている。
明治五年に村社となり、同四〇年には同大字若宮の八幡神社と浅間神社を本殿に合祀し、字中ノ小路より稲荷神社を境内に合祀する。(「埼玉の神社」より)
氷川神社(高倉)所蔵の文化財
- 高倉氷川神社本殿付棟札(入間市指定有形文化財)
- 高倉氷川神社の懸仏(入間市指定有形文化財)
- 高倉祇園太鼓(入間市指定無形民俗文化財)
- 高倉ばやし(入間市指定無形民俗文化財)
高倉氷川神社本殿付棟札
現在の氷川神社の本殿は、明和五年(一七六八)に再建されたものであり、本殿として使用しているものでは市内最古である。
建築の形式は、浜床のついた一間社流造である。総桧造で、太い土台に丸は白の母屋柱が四本立てられている。唐戸面取りの向拝社には獅子や獏などの木鼻彫刻が施され、蟇股には麒麟・馬・鹿等、脇障子には雲波竜が配されているなど、小さいながらも手馴れた手法が見受けられる。屋根は杮葺きで、鬼板には寺院で用いる卍巴が刻まれている。付の棟札にも「高倉村高峯山宝行寺良貞代」の記載があり、当時は神仏習合だったことがうかがえる。
棟札には、明和五年八月に武州横見郡丸貫村(現在の比企郡吉見町)の大工秋庭万一朗とその門弟で小谷田村の斎藤作左衛門らと黒須村・高倉村など地元の職人が携わって造立したことが記されている。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
高倉氷川神社の懸仏
古来神道では、鏡を御神体として神像をもたなかったが、仏教の伝来と共に神仏習合の思想が進み、本地仏が神として垂迹するという本地垂迹説が広まった。この説に基づいて鏡に仏像などを描いたり、浮き彫りにしたものが懸仏である。高倉の氷川神社には二面の懸仏が現存している。
上の懸仏は、直径二十三センチメートルで、中央部に高さ十・七センチメートル、幅六・五センチメートルの大日如来坐像を浮彫像として鋳出している。天文二年(一五三三)の銘を持ち、懸仏としては市内最古である。
下の懸仏は、直径二十四センチメートル、中央に高さ十・五センチメートル、幅六・七センチメートルの大日如来坐像を装着する。もとは浅間山にあった浅間神社に奉納されたもので、享保五年(一七二〇)銘を持つ。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
高倉祇園太鼓
高倉祇園太鼓のオオドウ(大太鼓)は、現在までに六回の張り替え修理が行われているが、最初の張り替えの記録は、文化十二年(一八一五)までさかのぼり、江戸時代後期にはすでに高倉祇園太鼓が演奏されていたことが知られる。
現在は毎年七月十九日・二十日に近い土曜日・日曜日に行われる高倉氷川神社の例祭で奉納される。この祇園太鼓は、天王さまの祭りに行われる、いわゆる祇園ばやしである。なお、天王さまの祭りは、本来八坂神社のものであるが、高倉氷川神社には八坂神社が合祀されているため、氷川神社の夏祭りは「天王さま」と呼ばれるようになったとのことである。
祇園太鼓の演奏は、天王さまの行列が村回りをする際に行われる。オオドウ、コビ(小太鼓)を設置したヤグラをワカイシ(若衆)が担ぎ、太鼓はヤグラの中で立って叩き、笛と鉦はヤグラの外側について演奏される。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
高倉ばやし
高倉ばやしは、高倉地区に伝わる祭り屋台囃子である。江戸時代末期に川越まつりの新宿連(祭囃子組)から伝承され、明治時代の初めに盛んになったと伝えられる。
流儀は神田若狭流で、他の流儀に少ない威勢のよい、独特な演技を特徴としている。
囃子は、毎年七月に高倉の氷川神社で行われる天王様の祭りなどで演奏される。高倉の天王様は、もとは高倉小学校の西側にあった八坂神社の祭礼で、屋台が村まわりの途中で浅間山に登る勇壮な姿は「高倉天王、黒須まち」と呼ばれて、近郷の人出で大いに賑わった。現在は、八坂神社が氷川神社に合祀されたため、氷川神社で天皇様の祭りが行われている。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
氷川神社(高倉)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿