白鬚神社(寺竹)。入間市寺竹の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

白鬚神社(寺竹)。金子越中守家定が再建、寺竹・三ツ木・峰の総鎮守

白鬚神社(寺竹)の概要

白鬚神社(寺竹)は、入間市寺竹にある白鬚神社(寺竹)です。白鬚神社(寺竹)の創建年代等は不詳ながら、高麗人が当高麗郡入植した霊亀2年(716)に創祀したとも、平行長が当地に下向して金子氏と改姓した応和二年(962)、或いは金子十郎家忠が城の鬼門にあたる当地に仁安3年(1168)に社殿を造営したともいいます。その後金子越中守家定が元亀3年(1572)社殿を再建、寺竹・三ツ木・峰の総鎮守だったといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領10石の御朱印状を拝領、明治5年村社に列格、昭和49年、権現山にあった権現社を境内へ合祀しています。

白鬚神社(寺竹)
白鬚神社(寺竹)の概要
社号 白鬚神社
祭神 白髪武広国押稚日本根子天皇(清寧天皇)武内宿祢命、猿田彦命
相殿 -
境内社 金刀平羅神社・敷島神社・権現社
祭日 例祭7月19日・20日に近い土・日曜日
住所 入間市寺竹852
備考 旧村社



白鬚神社(寺竹)の由緒

白鬚神社(寺竹)の創建年代等は不詳ながら、高麗人が当高麗郡入植した霊亀2年(716)に創祀したとも、平行長が当地に下向して金子氏と改姓した応和二年(962)、或いは金子十郎家忠が城の鬼門にあたる当地に仁安3年(1168)に社殿を造営したともいいます。その後金子越中守家定が元亀3年(1572)社殿を再建、寺竹・三ツ木・峰の総鎮守だったといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領10石の御朱印状を拝領、明治5年村社に列格、昭和49年、権現山にあった権現社を境内へ合祀しています。

新編武蔵風土記稿による白鬚神社(寺竹)の由緒

(寺竹村)
白鬚社
東方三ツ木村の境山の中腹にあり、古は境の明神と稱せり、神領十石の御朱印を賜へり、本地は十一面観音にて慶長十一年と彫たり、徑り一尺許なる圓き木の中に安ず、銅佛にて長三寸、當村及び三ツ木・峯三村の鎮守なり、按に當社の由来記に、人皇五十代桓武天皇八代後胤、金子武蔵守平行長、依勅命武總兩州爲武士、棟梁下向關東、武州金子邑築城郭云々、後百餘年經て金子十郎家忠、武運長久の爲に境明神を鬼門に築き、四百五年の星霜へ經て、元亀三年に至るとあり、元亀より四百五年をさかのぼれば、六條天皇御宇仁安三年に至れば、此頃始て勧請せしにや、是も外に據はなけれど、兎角に古き社なりしなるべし。
末社。三社権現社。愛宕社。浅間社。天神社。稲荷社。
別當龍蔵院。三寶院派、江戸鳳閣寺の配下、金明山と號す、本尊不動三尺二寸、春日の作。
什寶。太刀二腰。金子十郎家忠所持の物と云傳ふ。
辨天社。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による白鬚神社(寺竹)の由緒

白鬚神社<入間市寺竹八五三(寺竹字裏山東一号)>
当地は霞川流域にあり、古くは金子郷寺竹村と称した。金子は『古今要覧稿』姓氏の部金子の項に、物部監古連公は葛野韓国連の祖であるとあり、霊亀二年高麗人の当地入植にかかわる地名である。当社の創建もまたこの時であり、高齢人の祀る神がこの地に祀られたものであろう。社記に、応和二年平行長が当地に下向し、城を築いて金子氏と号した。下って仁安三年に子孫の金子家忠が城の鬼門にあたる当社を再興したとある。
社蔵十一面観音の懸仏(二七センチメートル)に。元亀三年壬申九月吉日金子越中守家定の銘があり、金子家定が滝山城の北条氏照と対陣の時戦勝を祈って奉納したと伝え、以来、鏡明神として信仰されるという。
本殿には、慶長一一年・貞享五年の二枚の棟札を蔵する。この棟札から別当は村内の当山派修験竜蔵院であったことが知られる。
慶安二年、先規の例により十石の朱印状をうける。明治五年に村社となる。昭和四九年、権現山にあった権現社を境内へ合祀する。
一間社流造りの本殿には、桶に入った白鬚明神像(二五センチメートル)と白鬚明神と刻んだ銅鏡(六センチメートル)を安置している。祭神は清寧天皇・武内宿禰・猿田彦命である。
境内社に金刀平羅神社・敷島神社・権現社がある。(「埼玉の神社」より)

境内掲示による白鬚神社(寺竹)の由緒

桓武天皇八代の子孫、武蔵守左近中将平行長が応和二年(西暦九六二年)村上天皇の命によって武士の棟梁として、また地方の役人として関東に下り武州金子郷に館を築き、金子の姓を名乗る。其の后一七六年経った保延四年(一一三八年)に金子十郎家忠が生まれ、仁安三年(一一六八年)今から八一三年前家忠三十才のとき社殿を造営、其の后四〇四年を経た元亀三年(一五七二年)家忠十四代の孫、金子越中守家定により社殿が再建された。(境内掲示より)


白鬚神社(寺竹)所蔵の文化財

  • 白髭神社の懸仏(市指定有形文化財)

白髭神社の懸仏

日本在来の神は鏡を御進退とし神像をもたなかったが、仏教の流入と共に神仏習合の思想が進み、インドの本地仏が神として垂迹(仮に姿を現すこと)するという本地垂迹説が広まった。この垂迹説に基づいて鏡に仏教などを描いたり浮き彫りしたりして御正体(神の本体)としたものが懸仏である。寺竹の白髭神社の懸仏は直径二七・四cm、中央に高さ一四・五cm、幅七・五cmの十一面観音坐像を浮彫像として鋳出する。全面に鍍金が施され保存状態が良く、また銘文にみられる金子越中守家定は、金子十郎家忠ゆかりの子孫と考えられ、入間市にとって重要な文化財である。西暦一五七二年。
<銘文>
武州入東郡金子郷木蓮枝峯寺竹三村内
境之大明神 家安
(十一面観音坐像)英家・秀種・家親
金子越中守家定
元亀三年壬申九月吉日(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)

白鬚神社(寺竹)の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿