八幡神社(谷ヶ貫)。甲斐武田一族の増岡重義が宇佐八幡宮を勧請
八幡神社(谷ヶ貫)の概要
八幡神社(谷ヶ貫)は、入間市上谷ケ貫にある八幡神社(谷ヶ貫)です。八幡神社(谷ヶ貫)は、甲斐の武田一族で、増岡重義(嘉慶二年・一三八八)が、宇佐八幡宮の分霊を勧請して文和3年(1354)に創建したといいます。慶長年間に中山雅楽輔信也の社殿寄進、延宝二年に領主大久保甚右衛門の鳥居を奉献されるなど、歴代の領主に崇敬され、江戸期には上谷ヶ貫村の鎮守社として祀られていたといいます。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 品陀和気命 |
相殿 | 稲倉魂命 |
境内社 | 伊勢神社、津島神社、迦具土神社、浅間神社、諏訪神社、菅原神社、三峯神社、護国神社 |
祭日 | - |
住所 | 入間市上谷ケ貫699 |
備考 | - |
八幡神社(谷ヶ貫)の由緒
八幡神社(谷ヶ貫)は、甲斐の武田一族で、増岡重義(嘉慶二年・一三八八)が、宇佐八幡宮の分霊を勧請して文和3年(1354)に創建したといいます。慶長年間に中山雅楽輔信也の社殿寄進、延宝二年に領主大久保甚右衛門の鳥居を奉献されるなど、歴代の領主に崇敬され、江戸期には上谷ヶ貫村の鎮守社として祀られていたといいます。
新編武蔵風土記稿による八幡神社(谷ヶ貫)の由緒
(上谷ヶ貫村附新田)
八幡社
村の鎮守にて、西光院の持。
末社。天神社、山神社、諏訪社、稲荷社、天王社、愛宕社、大日堂。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による八幡神社(谷ヶ貫)の由緒
八幡神社<入間市上谷ヶ貫六七九(上谷ヶ貫字蓬谷)>
当地は霞川の流域にある。当社の創建について、口碑に鎌倉時代の末に武田の一族である増田重義なる者が当地に来て住み、文和三年日ごろ崇敬する宇佐八幡を勧請したとある。
また、当地に伝承される棒使いの伝書に「文和三年南朝の遺臣源重光なるもの武蔵国入間郡上谷ヶ貫村に来り住す其の子郷右衛門頼成村民と相図り豊前国宇佐郡に鎮座まします八幡の大神を勧進して蓬谷に祀る御遷座の砌亀は前衛となり鶴は後衛となりて護衛し奉る云々」と記されている。
『風土記稿』に「八幡社 村の鎮守にて、西光院の持」とあり、西光院は真言宗で八幡山薬師寺と号して、当社を西光院の鬼門除けの神と呼んで崇敬していたという。
当社への信仰の大きさを物語る事として、慶長年間に中山雅楽輔信也の社殿寄進、延宝二年に領主大久保甚右衛門の鳥居奉献がある。
社伝に延宝四年社殿焼失があり、現在の一間社流造りの本殿は文久年間の再興といわれている。
往時の神体として懸仏が二面あり、一面は直径二二.五センチメートルで「寛永十四年丁丑三月五□ 武刕入間郡小谷田郷谷ヶ貫村 別当西光院敬白」の銘文が、もう一面は二四センチメートルで「武州入間郡上谷ヶ貫村八幡山西光院」の銘がある。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による八幡神社(谷ヶ貫)の由緒
文和三年(一三五四)武田一族で、増岡重義(嘉慶二年・一三八八)と云える者が、豊前の国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を当村誌金子の郷谷ヶ貫村逢谷に勧請したものと伝承される。
当時南北朝時代(正求七年一三五二)入間川殿と云われ関東管領の足利基氏が入間川館に居住し、当地領を支配してゐた。武田氏は甲州に住んだ源氏の子孫で、山梨県北巨摩郡神山村大字武田(現韮崎市)には武田氏の遺跡勝頼の菩提寺があり、増岡家の家紋は、韮崎市周辺に使用されてゐる。武田家四ツ目菱の門が元祖と推定される。
武田氏は源義光が甲斐の国司となり武田信義が、源頼朝に仕え守護職となった。その信義の息女が武蔵七黨中随一と云われ当金子が生んだ金子十郎家忠の弟金子伊豆神近範の妻になってゐる。金子氏系図の中に、金子家長が武田信綱に仕え、その子正助が武田信虎、武田信玄に仕えてゐた。
谷ヶ貫村(現上下谷ヶ貫)はその昔一村にして徳川時代慶長年(一六〇九)に大久保甚三郎忠知、大久保甚右衛門長重の知行となり延宝二年(一六七四)には大久保山城守長重が鳥居を奉納したことが記録されてゐる。
其の後上分(現大字上谷ヶ貫)は延喜四年(一七四七)に田安領(八代将軍吉宗の二男田安宗武)に下分(現大字下谷ヶ貫)は続いて大久保氏の所領であったと伝えられ当時の検地帳等で明らかにされてゐる。
社殿は慶長年間中山雅楽輔信也が心願を以て寄進すと云ふ。後延宝四年(一六七六)に焼失し後年再建されたと云われ当時を偲ぶ当社宝物の懸佛(寛永十四年一六三七)が現存しているが、火災に遇ったと思われる跡がある。
当社には入間市指定文化財の獅子舞があり、十月日(現在は十月第一日曜日)菩提寺西光院より出発し、村内の安泰と五穀の豊穣を祈念し鎮守八幡神社に奉納されるものであります。(境内掲示より)
八幡神社(谷ヶ貫)所蔵の文化財
- 八幡神社の懸仏(市指定有形文化財)
- 上谷ヶ貫の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
八幡神社の懸仏
古来の神道では、鏡を御神体とし神像をもたなかったが、仏教の伝来とともに神仏習合の思想が進み、本地仏(仏・菩薩)が神として垂迹(仮に姿で現れる)という本地垂迹説が広まった。この説に基づいて鏡に仏像などを、描いたり浮き彫りしたりしたものが懸仏である。上谷ヶ貫の八幡神社には二面の懸仏が現存している。
写真上の懸仏の大きさは直径二十二・八cmである。銘によると寛永十四年(一六三七)に武州入東郡小谷田郷上谷ヶ貫村(現入間市上谷ヶ貫地区)の人々によって、八幡神社を管理していた同村の西光院へ奉納されたものである。
写真下の懸仏の大きさは直径二十四cmである。裏面の銘によると武州入東郡上谷ヶ貫村(現入間市上谷ヶ貫地区)の人々によって西光院へ奉納されたものである。年代は不明である。
二面の懸仏とも弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来座像を浮彫像として鋳出している。
八幡神社の懸仏は、懸仏の形態をよく示しているとともに、当時の神仏習合における民間信仰の様相を伝える資料として貴重である。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
上谷ヶ貫の獅子舞
上谷ヶ貫の獅子舞は、八幡神社の社伝によると、文和年間(南北朝時代)に社事として豊前国(現大分県)宇佐八幡宮から伝えられたといわれている。
獅子舞は毎年十月五日(現在は十月第一日曜日)に村内の安泰と五穀豊穣を祈念して、西光院と八幡神社で奉納される。
西光院本堂での高砂の謡に始まり、花がかり、竿がかりの二庭を西光院と八幡神社で舞い、その後村まわりに移り、各辻で棒使いと獅子舞を演じながらまわる。
現在使われている獅子舞は、文政年間(約一五〇年前)の作で上谷ヶ貫の比留間要吉が三年かかって彫ったといわれている。
構成は金棒(二名)、万燈(二名)、山伏(二名)、母衣(四名)、棒つかい(四名)、簓(四名)、猿田彦命(一名)、太郎獅子・次郎獅子・女獅子(各一名)、燈籠(八名)、笛方、唄方など約五十名で行われる。(入間市教育委員会・入間市文化財保護審議委員会掲示より)
八幡神社(谷ヶ貫)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿