西淨寺。田安宗武が造立した宝篋印塔
西淨寺の概要
真言宗霊雲寺派寺院の西淨寺は、威徳山佛日院と号します。西淨寺の創建年代等は不詳ながら白玉山西常寺と号す天台宗寺院として創建、元文五年(1740)高健比丘(宝暦3年1753年寂)が真言宗霊雲寺派に改め威徳山佛日院西淨寺と改号したといいます。境内の宝篋印塔は八代将軍徳川吉宗の次男である田安宗武が願主となり、宝暦4年(1754)に造立したものだといいます。
山号 | 威徳山 |
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院号 | 佛日院 |
寺号 | 西淨寺 |
住所 | 狭山市柏原1059 |
宗派 | 真言宗霊雲寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西淨寺の縁起
西淨寺の創建年代等は不詳ながら白玉山西常寺と号す天台宗寺院として創建、元文五年(1740)高健比丘(宝暦3年1753年寂)が真言宗霊雲寺派に改め威徳山佛日院西淨寺と改号したといいます。
新編武蔵風土記稿による西淨寺の縁起
(柏原村)西浄寺
威徳山佛日院と號す、眞言律宗、江戸湯嶋靈雲寺末なり、元は村内常楽寺末にて、羽黒山行人派なり、第二世泉海は延寶中の住僧なりし頃は、白玉山西常寺と號せるよし、そのことは護持の本尊大日銅佛にて、背後に刻して見えたり、この寺元文五年より眞言宗となれり、中興開山は高健比丘寶暦三年六月七日寂す、時に年八十二、本尊は三尊彌陀を安置せり
寶篋塔一基。寺後の山上にあり、高さ一丈餘、銘文左のごとし。
徳川右衛門督宗武卿、命工造此制底一基、以祈冑子壽丸君之壽福、貧道、欽書寫寶篋印陀羅尼一巻、以納于塔内、兼書四如来種子而刻之於四面云、
寶暦四年甲戌春三月 江府靈雲精舎法明識(新編武蔵風土記稿より)
西淨寺所蔵の文化財
- ねずみの図(狭山市指定文化財)
- 西浄寺の宝篋印塔
ねずみの図
この「ねずみの図」が所蔵されている西浄寺は、江戸時代初期には羽黒山行人派の寺でしたが、元文五年(一七四〇)に江戸湯島の霊雲寺(真言宗)末となりました。
江戸時代末期の書物「新編武蔵風土記稿」によりますと、その中興開山・高健比丘の当時、甲子大黒天をまつったところ大いに栄え、関東各地からの参詣者が絶えなかったそうです。
明治初期の住職・林法泉は非常に絵を好み、明治画壇の大火河鍋暁斎の門人と伝えられるほどの人でした。明治一四年(一八八一)その暁斎が西浄寺に滞在し多くの作品を残しましたが、その一つが、この「ねずみの図」です。
この絵は甲子大黒天にちなんだもので大黒さんんのお使いであるねずみがうちでの小づちをつくっているところを描いたものです。忙しくたちはたらくねずみの愛嬌あるしぐさに、この絵の特徴があります。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
西浄寺の宝篋印塔
西浄寺は真言宗霊雲寺派の寺院で、本尊は木像大黒天立像です。同寺は、元文五年(一七四〇)までは天台宗寺院でしたが、高健和尚が入寺してから真言宗になりました。
宝篋印塔は、本堂に向って左側にあります。この石塔は、読んで字のごとく宝篋印陀羅尼経と呼ばれる経典を納めるためのもので、宝暦四年(一七五四)三月に、八代将軍徳川吉宗の次男である田安宗武によって建てられました。
造立主旨は、宗武が実子寿丸の福寿を願い、前述の経典を塔内に納めたことが銘文からわかりますが、そうした石塔がなぜこの寺にあるのかは不明です。本寺が湯島の霊雲寺なので、そことの関係も考えられますが、詳細はわかっていません。
昭和六十三年(一九八八)七月の台風で石塔が傾いたとき、塔身から宗武が納めた宝篋印陀羅尼経一巻が発見されましたが、その末尾には「従三位宰相徳川右衛門督宗武卿造立宝篋印塔一基、以新嫡子寿丸君寿福余為之書此経一巻、以納之於塔中云爾」とあります。
なお、田安家は、一橋家・清水家ともに徳川御三卿の一つで、享保十六年(一七三一)に宗武が、江戸城田安門内に屋敷を与えられて一家を起こしたのがはじまりです。(狭山市柏原地区センター・ふるさと柏原歴史会掲示より)
西淨寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿