瑞泉院。金子十郎家忠墓所
瑞泉院の概要
曹洞宗寺院の瑞泉院は、金龍山木蓮寺と号します。瑞泉院の創建年代等は不詳ながら、金子十郎家忠の妻畠山氏(建仁元年1201年卒、法名木蓮院)を開基として金子十郎家忠(建保4年1216年卒、法名瑞泉院雄翁道英)が木蓮寺と号して創建したのではないかといい、菊隠禅師(永正年間1504-1520寂)がその師神嶽通龍禅師(大永4年1524年寂)を勧請開山として再興、臨済宗寺院から曹洞宗寺院へ改めた際に瑞泉院と改めたのではないかといいます。江戸期には幕府より寺領15石の御朱印状を拝領しています。
山号 | 金龍山 |
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院号 | 瑞泉院 |
寺号 | 木蓮寺 |
住所 | 入間市木蓮寺874 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
瑞泉院の縁起
瑞泉院の創建年代等は不詳ながら、金子十郎家忠の妻畠山氏(建仁元年1201年卒、法名木蓮院)を開基として金子十郎家忠(建保4年1216年卒、法名瑞泉院雄翁道英)が木蓮寺と号して創建したのではないかといい、菊隠禅師(永正年間1504-1520寂)がその師神嶽通龍禅師(大永4年1524年寂)を勧請開山として再興、臨済宗寺院から曹洞宗寺院へ改めた際に瑞泉院と改めたのではないかといいます。江戸期には幕府より寺領15石の御朱印状を拝領しています。
新編武蔵風土記稿による瑞泉院の縁起
(木蓮寺村)瑞泉院
御朱印十五石曹洞宗、初め臨済なりしが後改めしと云、その改めし年歴は詳ならず、甲斐國山梨郡落合村永昌院の末、金龍山と號す、開山は神嶽通龍禅師は中興せしなるべし、夫をいかにと云に、當寺は金子十郎家忠が開基にて、家忠は建保四年二月十七日卒す、法謚を瑞泉院雄翁道英と云、これ此院號の起りし故なり、さて建保と永正とは中間二百九十年の星霜をへたり、又寺傳に家忠が妻畠山氏建仁元年三月廿三日家忠に先て歿せしとて、その石碑も境内に立り、法謚を木蓮院或は寺とも、標室奇榜と云、されば當寺始は木蓮寺と號せしを、後に家忠が法謚をもて寺號をも改て、瑞泉院と號するは、通龍禅師中興の時などにや、又按に【讒語集】に菊隠禅師諱瑞潭、字菊隠、嗣法一華云々、開甲之善應、興武之瑞泉兼帶、住持法化大行、大永四年十二月示寂とあり、是によれば當寺をば菊隠禅師開山し、己が師神嶽通龍をもて勧請開山とせしは論なし、されど神嶽通龍及び菊隠等は、永正・大永の示寂と云は、前にもいへるごとく年代たがへり、又この文によるに、永正・大永の比は、已に院號を改めしことしるべし、又過去帳に金子氏代々の法名卒年もありて、甚明備なれど疑ふべし、金子氏の子孫今松平大膳大夫の家に殘れり、則金子十郎左衛門忠義・同六郎左衛門忠行より當寺へ贈りし書を蔵せり、其内に金子氏の由来及び此地を草創せしことをのせたれども、此人のことは爰のみに非ず、多磨郡金子村の條に辨じたれば、ここにはのせず。
鐘楼。文化年中の銘あり、取るべきものなし。
天満宮。 (新編武蔵風土記稿より)
瑞泉院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿