廣福寺。徳川家光が賞賛した梅樹
廣福寺の概要
天台宗寺院の廣福寺は、薬王山地蔵院と号します。廣福寺は、尊榮(天正12年1584年寂)が永禄11年(1568)に創建、江戸時代には徳川家光が度々当寺を訪れ、梅樹を賞賛したといいます。関東九十一薬師霊場32番、関東百八地蔵霊場9番、武蔵国十三仏霊場の(文殊菩薩)3番、武州八十八所霊場69番です。
山号 | 薬王山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 廣福寺 |
住所 | 狭山市下奥富844 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣福寺の縁起
廣福寺は、尊榮(天正12年1584年寂)が永禄11年(1568)に創建、江戸時代には徳川家光が度々当寺を訪れ、梅樹を賞賛したといいます。
新編武蔵風土記稿による廣福寺の縁起
(下奥富村)廣福寺
天台宗、仙波中院末、薬王山地蔵院と號す、開山尊榮永禄十一年當寺を草創して、天正十二年七月十一日寂せり、其後元和九年十一月七日大猷院殿川越御放鷹の時、當寺へ渡らせ給ひしより以来、此邊御遊歴の時は渡御ありしを、定例とし給ひしゆへ、寛永元年十一月十五日、同二年二月十一日、同三年二月八日、同四年二月十三日、同七年二月十五日の六度までに及びしとなり、其比の御休足の間を賜はるにより、客殿に用ゆべし旨命を蒙るの由、領主松平伊豆守信綱より傳へしかば、則此を客殿に用ひしかど、後回禄に逢て烏有となりしと云、本尊は薬師を安ず。
樓門。樓上に安永三年九月鋳成の鐘をかけり。
梅樹。門を入て右にあり、昔大猷院殿御遊歴の時、折しも此花盛なりしかば、其の花色を賞翫ありしにより、今に御詞の梅と稱して敬畏し、埒をゆひ廻らして人をして近くことを得ざらしむ、此梅いと老て枯盡し、今は蘗より枝葉出たり。
天神稲荷合社(新編武蔵風土記稿より)
廣福寺所蔵の文化財
- 広福寺山門(狭山市指定文化財)
広福寺山門
広福寺山門は、広福寺所蔵の古記録によると、文化二年(一八〇五)に完成したと考えられます。
山門と鐘楼が一体化した構造の鐘楼門で、袴腰は漆喰白壁塗り、上層部は格天井の勾欄(手すり)をめぐらし、屋根は入母屋造りの瓦葺きという總ケヤキ材の珍しい竜宮造りの建築様式です。
この山門をくぐった本堂の前には紅梅がありますが、徳川三代将軍家光が鷹狩りの際の休息の折に、その美しさを賞賛したことから「御詞之梅」と言われ、梅のそばにある井戸も、その水で家光にお茶を入れたことから「梅之井」と言われたと伝えられています。
また、幕末には尊王攘夷に身を捧げた、清河八郎をはじめ、中村貞太郎(北有馬太郎)や、西川練造等、多くの勤皇の志士達がこの山門をくぐったと言われています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会掲示より)
廣福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿