青柳神明社。当地を開発した宇田川家の氏神
青柳神明社の概要
青柳神明社は、草加市青柳にある神明社です。青柳神明社の創建年代は不詳ですが、江戸時代初期に当地周辺青柳村大広戸の開拓にあたった宇田川家の氏神として祀られていたといい、後年村民管理となったといいます。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 大己貴命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 草加市青柳3-16-21 |
備考 | - |
青柳神明社の由緒
青柳神明社の創建年代は不詳ですが、江戸時代初期に当地周辺青柳村大広戸の開拓にあたった宇田川家の氏神として祀られていたといい、後年村民管理となったといいます。
新編武蔵風土記稿による青柳神明社の由緒
(青柳村)神明社
村持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による青柳神明社の由緒
当社は、葛西用水の東側に鎮座し、その境内地(四九坪)は青柳小学校と民家とに挟まれた一角にひっそりとある。
口碑によれば、神明様は元は宇田川家の氏神で屋敷の西隅に祀られていたが、いつのころか今の地に移されて、村持ちの社となったという。この宇田川家は「下の紺屋」の屋号で呼ばれる宇田川好春家を指し、当社の北北西一〇〇メートルほどの所に屋敷を構える。その初代は品川宿(東京都品川区)から移住した農民であったと伝え、当主の好春で一八代を数える。恐らくは、江戸時代の初めに沼地であった当地の開拓に当たった人々の内の一軒であったと思われる。また、当社の移転時期は明らかでないが、『風土記稿』には「神明社村持」と見えることから、化政期(一八〇四-三〇)には既に今の地に祀られていたものであろう。
明治初年の社格制定に際しては、青柳村の妙見社が八幡神社と改称して村社に列し、当社は無格社とされた。その後、当社を八幡神社に合祀する画策がなされたが、当社の地元である字大広戸の人々の強い反対により中止に至った。
社殿は、棟札によれば、明治二十二年に再建し、その後昭和四十三年に再建した。(「埼玉の神社」より)
青柳神明社の周辺図