東漸院。寺領3石の御朱印状、武蔵国八十八ヶ所霊場
東漸院の概要
真言宗豊山派寺院の東漸院は、阿日山報體寺と号します。東漸院の創建年代は不詳ですが、室町時代(一五〇〇年前後)に定範が開山したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領3石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する本寺格の寺院だったといます。武蔵国八十八ヶ所霊場65番です。
山号 | 阿日山 |
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院号 | 東漸院 |
寺号 | 報體寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 草加市柿木町1286 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東漸院の縁起
東漸院の創建年代は不詳ですが、室町時代(一五〇〇年前後)に定範が開山したといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領3石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する本寺格の寺院だったといます。
新編武蔵風土記稿による東漸院の縁起
(柿木村)東漸院
新義真言宗、下総國葛飾郡名都借村清瀧院末、阿日山報體寺と稱す、本尊不動を安ず、開山定範示寂の年月を失ふ、第六世天正年中定傳といへる僧、東照宮御帰依ありて、同き十九年茶湯料として、三石の御朱印を賜ふ、因て是も中興と稱す、此僧西方村大聖寺をも中興す、あはせ見るべし。
鐘楼。安永年中、再鋳の鐘をかく。
薬師堂。享保年中高野山の木食僧恵昌といへるもの、當寺に住せし頃、負けひ来りて安置する所なりと、則恵昌が作なりと云ふ。
清瀧権現社。是も恵昌が時、本堂の前なる榎のうろの内へ鎮守せしが、先年火災の頃、この榎も焼しゆへ、今はその邊に小祠を安ぜり。(新編武蔵風土記稿より)
東漸院所蔵の文化財
- 東漸院山門(市指定文化財)
- 万治二年板碑型六地蔵(市指定文化財)
東漸院山門
当寺は阿日山報體寺と称し、新義真言宗豊山派である。創立の年代は詳かではないが、開基は定範という人で、室町時代(一五〇〇年前後)と推定され、市内最古の寺院と思われる。
東漸院という名称は、第六世定傳のころ、天正十九年(一五九一)、徳川家康から朱印地三石を賜ったときにつけられたといわれる。
寺の由緒書によると、元禄と寛政年間の二回の火災により本堂を焼失したが、鐘楼と山門は、寛政の災害をまぬがれたと記録されている。
山門は寺院の表門で、型式は一間一戸の四脚門である。即ち、本柱(円柱)の前後に控柱(角柱)が四本ある。規模は、表柱間三・一六メートル、妻は三・五八メートルである。そして、左右の本柱は台輪でつなぎ、妻側に組出し、装飾として木鼻をつけてある。内部は台輪下に虹梁を差し、台輪と虹梁の間に迫力ある彫刻を配している。
このように、全体の意匠は禅宗様のにぎやかな装飾を施した四脚門であるが、江戸中期以降の建物に共通した木割を守り、全体の構成の調和を考えている。
建築年代は明和以降(一七六四〜)と思われるが、建物は屋根を除き保存もよく、よくまとまった四脚門の好例として永く保存したい。(草加市教育委員会掲示より)
万治二年板碑型六地蔵
地蔵は六道を遊化して衆生を救済する菩薩であるが、のちに閻魔王の信仰と結びついて、その本地仏とされ、極楽往生を助けると信じられて、室町期には宗派に関係なく広く民間にひろまった。近世になるt、火防・盗難除け・病気平癒・子育て等あらゆる庶民の願望を叶えてくれる仏として信仰され、地蔵像が造立されるようになった。
高さ一六七センチ、幅七十センチ、厚さ四十五センチの本体が、高さ四十八センチ、幅七十七センチ、奥行七十三センチの台石に乗っている。本体には地蔵を三体ずつ二列に陽刻して、碑面の左右の縁と下部には蓮華を陽刻してある。中央上部に種子力(地蔵)を配し、その下に奉造立地蔵念仏結衆等二世安楽攸とあり、上部の向って右と左に万治二稔己亥(西暦一六五九年)十月十五日、同様下部に諸衆等、敬白と記してある。下部中央部に本願とし、右に新四郎、左に城柳の人名を、また最下部の地蔵と蓮華の間に十六名の人名が記されている。十八名の念仏結衆により、二世安楽を願って造立されたものであることが理解できる。市内に三十七例ある六地蔵のうちでは最も古く造立されたものである。板碑型の碑面に六体をおさめた例は他になく、近世の歴史を知るうえで、貴重な歴史資料といえる。(草加市教育委員会掲示より)
東漸院の周辺図