西光院。宮代町東にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

西光院。僧行基が草創したと伝えられる古刹

西光院の概要

真言宗智山派寺院の西光院は、龍澤山光福寺と号します。西光院は、奈良時代の僧行基が草創したと伝えられる古刹で、中世には岩槻城主太田氏の祈願所とされ、徳川家康の関東入国後には天正19年(1591)寺領50石の御朱印状を受領、末寺門徒塔中二十七ヶ寺を擁する大寺でした。当寺中興二世の日誉は徳川家康の帰依を受け、葵紋入りの茶碗を受領していました。当寺の阿弥陀三尊像は、安元2年(1176)の制作で、国重要文化財に指定され、国立博物館に寄託・展示されているそうです。

西光院
西光院の概要
山号 龍澤山
院号 西光院
寺号 光福寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 南埼玉郡宮代町東410
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



西光院の縁起

西光院は、奈良時代の僧行基が草創したと伝えられる古刹で、中世には岩槻城主太田氏の祈願所とされ、徳川家康の関東入国後には天正19年(1591)寺領50石の御朱印状を受領、末寺門徒塔中二十七ヶ寺を擁する大寺でした。当寺中興二世の日誉は徳川家康の帰依を受け、葵紋入りの茶碗を受領していました。当寺の阿弥陀三尊像は、安元2年(1176)の制作で、国重要文化財に指定され、国立博物館に寄託・展示されているそうです。

宮代町掲示による西光院の縁起

西光院
西光院は、真言宗智山派の寺で、かつては京都醍醐三宝院の直末であった。百間山光福寺と号し、奈良時代の僧行基の草創であると伝えられている。
当寺の阿弥陀如来像及び、観音像、勢至菩薩像の両脇侍からなる三尊像は、平安時代末の安元二年(一一七六年)に作られた。これらの仏堂は国の重要文化財に指定され、現在東京上野の国立博物館に寄託・展示されている。
中世には、岩槻城主太田氏の祈願所とされ、江戸時代の初期、徳川家康は寺を中興二世の日誉上人に深く帰依し、寺領五十石と、栗田焼きの、葵紋入りの茶碗を寄せた。この茶碗は、寺宝として現存している。
一方、当寺は御影供寺としても知られている。御影供というのは、弘法大師空海を供養する法要のことで、入定された旧暦三月二十一日にちなみ、当寺では毎年四月二十一日に行っている。また、新嫁は、初めてむかえるこの日に(四月二十一日)花嫁姿で参詣したことでも広く知られている。
なお、庫裡は昭和三十一年当時の知事公舎を一部移築したものである。(宮代町掲示より)

新編武蔵風土記稿による西光院の縁起

(東村)
西光院
新義眞言宗、山城國醍醐三寶院末、百間山光福寺と稱す、後に出せる天文廿二年の鰐口に據ば、古は寺號を以て行はれし事しらる、當院は行基の草創にて、安倍清明開基せりなど妄に云傳たれど、元より據とすべきことなし、昔は法相宗の大刹なりしが、中興開山日雄、今の宗門に改めしとなり、末寺門徒塔中二十七ヶ寺あり、寺領五十石は天正十九年十一月賜ふ、本尊薬師を安ず、日雄は慶長十三年八月五日寂す、中興二世日譽寛永十七年十一月二十日寂す、此僧東照宮御帰依あり、屡召寄られ、其頃拝領の御茶椀今に寺寶とす、文書二通あり、其文左の如し、
(文面省略)
昔は殊に大刹なりしゆへ、今は本堂・鐘樓・諸堂等多く境内の外に出たれど、もと御朱印寺領の内なれば、その實は寺地の構中なりといへり、是にても大寺なりしこと證すべし、
本堂。彌陀の坐像長三尺許なるを本尊とし、脇士に觀音勢至、そのほか不動毘沙門及脱衣婆を置、共に行基の作と云、又行基自作の坐像あり、長一尺八寸許、此堂の背後に行基の塚と云ありて、古へ和州菅原寺より、遺骨をうつせしよしいへど信じがたし、
地蔵堂。行基當所に履を掛し所ゆへ、履掛地蔵と云、又いかなることにや、舟山地蔵とも唱へり、
觀音堂。準提觀音を安ず、これも行基の作と云、
鐘樓。貞享三年鑄造の鐘をかく、
東照宮。御畫像の神影なり、中興二世日譽拝領せしより、御宮を造立せしと云、
五社權現社。祭神は熊野三山・山王・白山なり、
雷電社。昔此社に掛たる古鰐口を蔵す、其圖上の如し、
天神社
淺間社
辨天社
聖天社
三峰社
稲荷社
金比羅社
塔頭。東光院、觀音寺、不動坊、大蔵坊、大善坊。此餘明積坊・廣照坊・池之坊の三所ありしが、近き年より廢して、いまだ再建ならず、(新編武蔵風土記稿より)


西光院の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」