桃木八幡神社。地名明覚郷ゆかりの社、明覚郷8ヶ村の鎮守
桃木八幡神社の概要
桃木八幡神社は、比企郡ときがわ町桃木にある神社です。桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられます。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていました。明治40年字后山の琴平神社、田中字小御獄下の小御嶽神社、田中字石原の神明神社、馬場字比企田の無格社八坂神社、馬場字霧ヶ谷の山神社、馬場字袋ヶ谷の愛宕神社の6社を合祀しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社・八坂社・山神社合殿、大洗磯前 |
祭日 | 例大祭10月15日、春祭4月15日 |
住所 | 比企郡ときがわ町桃木399 |
備考 | - |
桃木八幡神社の由緒
桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられます。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていました。明治40年字后山の琴平神社、田中字小御獄下の小御嶽神社、田中字石原の神明神社、馬場字比企田の無格社八坂神社、馬場字霧ヶ谷の山神社、馬場字袋ヶ谷の愛宕神社の6社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による桃木八幡神社の由緒
(桃木村)
八幡社
妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
別當妙覺寺
もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし。
鐘樓。延寶六年鑄造の鐘なり、
地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による桃木八幡神社の由緒
八幡神社<都幾川村桃木三九九(桃ノ木字神戸)>
都幾川を見下ろす丘の上に鎮座する当社の境内は、氏子からは親しみを込めて「八幡様の杜」と呼ばれている。樹齢四〇〇年を超える大杉の林の中には馬場の跡や神井もあり、独特な造りの社殿と相まって、古社の越が感じられる。
『風土記稿』『明細帳』などに記された由緒によれば、当社は延暦十四年(八〇五)八月十五日、釈廣の山盛阿によって創建されたと伝えられる。この釈廣の山盛阿とは別当妙覚寺の開山僧である。下って建久四年(一一九三)には源頼朝が社領若干を附せしめ、当社を祈願所とした。そのころの当社は、末社が九〇余社もあり、すこぶる繁栄したが、天正十八年(一五九〇)八月、丙丁の災に罹り、社頭ことごとく焼失してしまった。しかし、寛永二年(一六二五)には再建され、明覚八か村の総鎮守とされたという。
神仏分離まで別当を務めた明覚寺は、古くは明王院といい、本山派修験の寺であったが、神仏分離後は西沢姓を名乗って復飾した。当主の泰一で二九代を数えるといい、『風土記稿』や『明細帳』に載る由緒は同家所蔵の社記によったものである。また、当社の本殿の軒には卍の紋が入っており、神仏習合当時の名残が見られる。なお、西沢家は代々当社の鍵を預かっており、当主が氏子総代として神社運営のまとめ役になっているなど、今も当社と深いかかわりがある。(「埼玉の神社」より)
桃木八幡神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)