龍福寺。比企郡ときがわ町玉川にある曹洞宗寺院

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龍福寺。藤原盛吉創建の伝承、旧龍腹寺

龍福寺の概要

曹洞宗寺院の龍福寺は、玉壺山と号します。龍福寺の創建年代等は不詳ながら、正平2年(1374)当地に館を構えた藤原盛吉が熊野権現・辨財天・春日神社等4社を当地に勧請、また一寺を建立して龍腹寺と名付けたと伝えられます。その後龍ヶ谷村龍穏寺14世良賀(慶長19年1609年寂)が中興し、龍福寺と改めたといいます。

龍福寺本堂
龍福寺の概要
山号 玉壺山
院号 -
寺号 龍福寺
本尊 釋迦牟尼仏像
住所 比企郡ときがわ町玉川4031
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍福寺の縁起

龍福寺の創建年代等は不詳ながら、南北朝時代の人藤原盛吉が熊野権現・秋葉権現・辨財天等4社を当地に勧請、また一寺を建立して龍腹寺と名付けたと伝えられます。その後龍ヶ谷村龍穏寺14世良賀(慶長19年1609年寂)が中興し、龍福寺と改めたといいます。

境内石碑による龍福寺の縁起

竜福寺梵鐘鋳造記念
昔藤原盛吉という者、当所の勝地なるを見て、熊野権現・弁財天等の四社をここに勧請し、一寺を建立し竜腹寺と名づけたという。その年暦等は明らかでないが、一説に天平年間ともいわれている。当時は上古大いに栄え、多くの僧が群衆し読誦昼夜絶えなかったという。
年移り智光禅人という者、全棟なる人の助力により寺を改築した。中世末、本寺竜穏寺十四世良賀を請じて開祖となし、寺号を竜福寺と改め現在に至った。
境内にあった鐘楼の鐘は、寛文十一年の鋳といわれ、その妙音は、殷々として字内にひびき、多くの檀徒にやすらぎを与えた。
昭和十六年太平洋戦争勃発、国内資材の欠乏に伴い、梵鐘は、兵器作製の材料として供出され、その姿を消した。
梵鐘を作ることは、当寺二十三世智嶽信由氏のかねてからの願いであり、また檀家の願いでもあった。昭和五十四年檀信徒相計り、おのおの浄財を寄進し、これを鋳造した。
この機会にこれを記念し、かつ、竜福寺並びに檀家のますますの隆昌を祈念し、この碑を建立した。(境内石碑より)

新編武蔵風土記稿による龍福寺の縁起

(玉川郷)
龍福寺
禅宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍穏寺末、玉壺山と號す、本尊釋迦、傍に十六善神の像あり何れも古物と見ゆ、寺記を閲るに藤原盛吉と云もの、當所の勝地なるを見て、熊野権現・辨財天等の四社を爰に勧請し、其後一寺を建立して、龍腹寺と名づく、是則當寺のことなり、其年歴等詳ならず、或は天平年中のことゝいへど信ずべからず、それより遥の星霜を經て漸く衰微せしを、本寺十四世の僧良賀中興す、此時寺號の文字を今の如く改めたり、良賀は慶長十九年正月二十八日寂す、又古へ智光禅師當寺に住せしことありと云、此寺記は寶永二年當山の住僧邑堂の書せし物にて、もと佛像の中より出し、舊記に據て書せしとあれど、其舊記は失ひしや今は傳へず、盛吉がこと總て詳ならず、村内に此人の居住せしと云壘蹟あり、
鐘樓。寛文十一年に鑄たる鐘なり、
熊野社
秋葉社
辨財天社。此社はもと、寺の前に池ありて、其中に鎮座せしが、後門内に移して池は埋たり、神體運慶の作と云、以上三社は當寺建立より先に、勧請せし四社の内なり、殘る一社は廢せしと云、
彌陀堂。本尊は行基菩薩の作、長三尺六寸許、此堂の背後に古碑一基あり、庚申四月十六日とのみ見えて、其餘の文字漫滅して讀べからず、是は相模國大磯の遊女虎が、曾我十郎祐成の爲に建し碑なりと云、されど其頃の物とも見えず、恐らくは附會の説なるべし、(新編武蔵風土記稿より)


龍福寺の周辺図