糀谷八幡神社。江戸時代初期に鶴岡八幡宮を勧請
糀谷八幡神社の概要
糀谷八幡神社は、所沢市糀谷にある八幡神社です。糀谷八幡神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に鶴岡八幡宮を勧請して創建、明治5年村社に列格、明治41年に同大字字富士塚の山神社(浅間様)、大字三ヶ島字新水の愛宕神社、同境内社金刀比羅神社を合祀しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 気比神社、山神社、浅間神社、八雲神社、愛宕神社、金比羅宮 |
祭日 | - |
住所 | 所沢市糀谷78 |
備考 | - |
糀谷八幡神社の由緒
糀谷八幡神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に鶴岡八幡宮を勧請して創建、明治5年村社に列格、明治41年に同大字字富士塚の山神社(浅間様)、大字三ヶ島字新水の愛宕神社、同境内社金刀比羅神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による糀谷八幡神社の由緒
(麹谷村)若宮八幡宮
村の産神なり、村民持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による糀谷八幡神社の由緒
八幡神社<所沢市糀谷七八(糀谷字宮後)>
当社は応神天皇を祀り、その創始は明らかではないが、江戸幕府御鷹司新藤但馬守という者が崇敬したと伝えられる。『風土記稿』に「若宮八幡宮 村の産神なり、村民持」とあり、往時若宮八幡宮と号したことが知られる。更に神社周辺にある宮前・宮後などの字名は、当社が古くから現在地に鎮座していたことを示している。
明治五年に村社となり、同四一年には同大字字富士塚の山神社(浅間様)、大字三ヶ島字新水の愛宕神社、同境内社金刀比羅神社を合祀したが、このうち山神社は旧地の小高い塚上に今も小祠がある。
祀職の中家は古尾谷城主中築後守資信を遠祖とする。文治二年源廉氏より六代氏重まで神職であったが、応長元年七代良円より本山派修験玉蔵坊(後に竜蔵院と改める)となり、下って三〇代義英が復飾して姓を中と名乗って再び神職となり、現在、義智は三三代目である。
境内に合祀した愛宕神社は、この玉蔵坊に祀ってあったもので、現在でも中家付近を愛宕様の元屋敷と呼ぶ。『風土記稿』竜蔵院の項に、「(前略)いつの頃にや勝軍地蔵の像一軀軀を蔵す、霊験あらたなる故、是を神体として愛宕権現を勧請せり、されば此権現領として御朱印を賜りしと云」とあり、宮司家には慶安二年をはじめに八通の「愛宕権現社領」の朱印状と、勝軍地蔵像がある。『郡村誌』には愛宕社を「白鳳十三年役行者勧請なりと云」と載せている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による糀谷八幡神社の由緒
創始は明らかではないが、宇佐八幡、鶴ヶ岡八幡宮を勧請して「若宮八幡」と号したこと、江戸幕府御鷹司新藤但馬守が崇敬した神社等「風土記稿」に記載がある。江戸期寛文十二年社殿朽廃し慶応三年九月二日に糀谷名主水村市郎宇衛門が発起し、大工田中勘九郎衛門等と共に社殿と鳥居を再建している。明治四十五年三月二十五日氏子一同協力し、大工新藤鳶作を中心に社殿を新築し同年六月五日知事から神饌幣帛料供進神社に指定されている。現在「宝暦貳壬申載水村氏」と彫刻した石額もあるので、江戸初期の創立と考える。明治三年八月の御大典記念には鳥居の新築、明治四十一年には境内社として山神社(浅間神社、八雲神社)愛宕神社、気比神社を詞り、社務所も建立して糀谷の鎮守になっている。(境内掲示より)
糀谷八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)