櫻木神社。本居宣長及び徳川光圀を祀る社
櫻木神社の概要
櫻木神社は、所沢市下新井にある神社です。櫻木神社は、後に名主となった森田七郎左衛門道依が嘉永3年(1850)に創建、明治10年無格社となったといいます。
社号 | 櫻木神社 |
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祭神 | 本居宣長、徳川光圀 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 所沢市下新井1360 |
備考 | - |
櫻木神社の由緒
櫻木神社は、後に名主となった森田七郎左衛門道依が嘉永3年(1850)に創建、明治10年無格社となったといいます。
境内掲示による櫻木神社の由緒
桜木神社
この神社は今を去る百参拾年前の嘉永三年当時下新井の人で(現東新井一一二番地)森田七郎左衛門道依が創建したもので、ご祭神は本居宣長及び徳川光圀を主神とし、あわせて国学の先賢者を摂社としてお祀りしてあります。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による櫻木神社の由緒
記載なし(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による櫻木神社関連項目
桜木神社<所沢市西新井町一三六〇(下新井字柿木台)>
近世の国学は、我が国の古典により我が国柄を明らかにし、明治維新に多大なる影響を及ぼしたのであり、またそれが一般市民から興り農村にまで浸透したことは、草莽の国学者を育てた。当社の創祀者森田七郎左衛門もその一人で、文政三年に生まれ、生来学問好きで、農耕の余暇読書に専念し、国典・漢学に通じ殊に本居宣長に私淑し、ついに本居内遠の門に入り、更に幕末に平田家門人帳に名を連ねている。
彼の国学に寄せる思いは厚く、嘉永三年、宣長翁五十年祭の折り自分の山林を開いて、秋津彦美豆桜根大人命(本居宣長)を主神として源義公命(徳川光圀)を合祀した小社を建てたのが始まりで、ここを本居山と通称するようになった。社号は宣長翁の神名にちなむ。
のち、文久元年三月に祭神と縁の深い方々を摂社として境内に石祠を建て奉祀した。本根神社は宣長翁の学祖として幡萩穂狭別五之魂命(荷田春満)美豆穂足大縣居霊命(賀茂真淵)と古学の首魁たる円珠庵下川大人命(契沖)を祀る。秀枝神社は神霊真柱大人命(平田篤胤)水月庵服部大人命(服部中庸)を祀り、宇弥之子神社には国足八十言霊大人命(本居大平)後鈴乃屋春庭大人命(本居春庭)弥足功績道根大人命(本居内遠)ら、宣長の後裔を祀る。末社篤志神社には山崎垂加・栗山潜鉾・多田南嶺を祀り、著名国学者、縁故者が一堂に会したようである。また、これらの神号を藤原信禮・前田夏蔭・猿渡盛章・平田鉄胤・久保季茲・本居豊穎らが書いていて、森田七郎左衛門の広い交友が知られる。このように国学者を祀る社は埼玉では希で、全国的にも珍しい。
明治維新を迎え、皇政復古・神祇官再興と橿原の御代を夢見た国学は華々しく展開した。当社はいよいよ仰がれ、有栖川宮熾仁親王をはじめ、権田直助・本居豊穎・猿渡盛章などの和歌献詠があった。
また、当村の名主となった森田七郎左衛門は明治三年に村を挙げての神葬祭願いを提出している。
社格制定の折に個人の邸内社と見なされて指定を受けなかったのを遺憾とし、明治一〇年に公の神社として願い出、無格社になり、同一三年社殿を再営したが大正七年火災で焼失し、以後再建し今に至る。(「埼玉の神社」より)
櫻木神社の周辺図
参考資料
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)