将軍塚と八国山。八ヶ国の山々を望めた地
将軍塚と八国山の概要
将軍塚と八国山は、所沢市松が丘にある名所旧跡です。将軍塚は、旧多摩郡域(現東村山市)と旧入間郡域(現所沢市)の境界となっていた八国山にある塚です。かつて当地からは駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八ヶ国の山々を望めたことから八国峠と呼ばれるようになったとされ、また狭山丘陵の東端に位置し東側には鎌倉街道上道が南北に通っていたことから、八国山周辺は幾度となく戦場となっていました。鎌倉幕府討幕の軍を挙げた新田義貞は、元弘3年(1333)小手指原で鎌倉幕府方と対戦、分倍河原で勝利しますが、その際に新田義貞が八国山にある塚に旗を立てたことからこの塚が将軍塚と呼ばれるようになったといいます。その後年不詳ながら浅間社の石祠が祀られるようになり富士塚とも呼ばれていたそうです。
旧跡・名所名 | 将軍塚と八国山 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 所沢市松が丘1丁目・東京都東村山市 |
備考 | - |
将軍塚と八国山の縁起
将軍塚は、旧多摩郡域と旧入間郡域の境界となっていた八国山にある塚です。かつて当地からは駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八ヶ国の山々を望めたことから八国峠と呼ばれるようになったとされ、また狭山丘陵の東端に位置し東側には鎌倉街道上道が南北に通っていたことから、八国山周辺は幾度となく戦場となっていました。鎌倉幕府討幕の軍を挙げた新田義貞は、元弘3年(1333)小手指原で鎌倉幕府方と対戦、分倍河原で勝利しますが、その際に新田義貞が八国山にある塚に旗を立てたことからこの塚が将軍塚と呼ばれるようになったといいます。その後年不詳ながら浅間社の石祠が祀られるようになり富士塚とも呼ばれていたそうです。
境内掲示による将軍塚について
将軍塚
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。
元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による将軍塚と八国山について
(久米村)
八國山
【附将軍塚】村の巽の方にあり、狭山の續きにて東の端なり、山の高さ十丈餘、山上より眺望すれば駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃八國の山々見ゆる故に此名ありと云、されど今は樹木繁茂して眺望をさゝゆる故、名に聞へしほどの景色とも覺へず、此に一つの塚あり、是を将軍塚とよぶ、或は富士塚とも云、塚上に纔の平地ありて淺間の小社あり、此塚を将軍塔と云ことは、土人の傳へには元寇の亂に新田義貞此塚上に旗を立てゝ、床几を居し故に起りし名なりと云、今按に土人の説もうけかひがたし、今塚之様を見るに古代此所をりし人などの塚なるも知べからず、因てかくよび来りしなるべし、(新編武蔵風土記稿より)
将軍塚と八国山の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
関連ページ
- 城山神社(本丸跡地)
- 所沢市松が丘537