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滝の城跡。所沢市城にある旧跡・名所

滝の城跡の概要

滝の城跡は、所沢市城にある名所旧跡です。滝の城跡は、狭山丘陵が柳瀬川へ向かって下る崖を利用した平山城で、(北条氏照が守る)滝山城の支城といわれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻略に際して、(大手門のあった)北側より攻めかけられ落城、そのまま廃城となっています。大正14年埼玉県史跡に指定されています。また、本丸跡(城山神社地)の西側からは、7世紀中頃に築造されたと推定される滝の城横穴墓群が発見されています。

滝の城跡
滝の城跡の概要
旧跡・名所名 滝の城跡
みどころ 旧跡
開園時間 -
住所 所沢市城537
備考 -




滝の城跡の縁起

滝の城跡は、狭山丘陵が柳瀬川へ向かって下る崖を利用した平山城で、(北条氏照が守る)滝山城の支城といわれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻略に際して、(大手門のあった)北側より攻めかけられ落城、そのまま廃城となっています。大正14年埼玉県史跡に指定されています。

城・埼玉県掲示による滝の城跡について

滝の城跡
滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山城で、その敷地は約六万六千平方メートルである。
現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。本丸は柳瀬川を眼下に見下す城の東南部に位置し、現在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀をへだてて二の廓的な曲輪があり、城はこの方向にいくつかの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。
この滝の城は、北条氏照の持城と考えられ、滝山城(永禄十三年の戦いの後、八王子城に移る)の支城といわれている。
永禄七年(一五六四)の北条氏の清戸番衆交代命令状を見ても、清戸下宿に番所があって固めてあり、城の防備と密接な関係があったと推定される。
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、落城したものと考えられている。
大正十四年三月三十一日付けで埼玉県指定史跡となっている。(埼玉県・所沢市掲示より)

新編武蔵風土記稿による滝の城跡について

(城村)
北條氏城蹟
村の南の方なり、八王子の城主北條陸奥守氏照が抱の城ありし迹なりと云、その高さ五丈ばかり、南は柳瀬川に望み構堀のあと二重にあり、絶頂本丸の迹とおもはるる所より望めば、多磨郡清戸のあたりを眼下に見、それより江戸の方への望ことによく開けたり、此所の廣さ纔に十餘歩なり、夫より下り惣構の迹はよほど廣けれど、古木あまた並び立て元の形はわづかに想像すべきまでなり、天正十八年小田原陣のとき、氏照が抱にてその家人のこもりしなるべし、何人なることは傳へざれど、その落城せしさまは唯村民の話に據に、敵は定て東南の方よりよせ来るべしとて、城塀をきひしくかけ弓鐵炮を備へて待かけしに、不慮に北の方大手の前より襲ひ来りしかば、按に相違して暫時に落城せり後世にこの處より折々古瓦など出せしことありと云、思ふに小田原責の時、此邊足立郡大宮邊より江戸の方へは、浅野弾正長政等が向ひしなれば、彼人数などに攻落されしにや、此邊下安松村長源寺及び氏照院等にも、氏照が寄進のものなどあれば、そのかみ此邊までも八王子領地に屬せしなるべし。(新編武蔵風土記稿より)


滝の城跡関連の文化財

  • 滝の城横穴墓群

滝の城横穴墓群

昭和五十一年、滝の城跡の土塁の土砂流失を防ぐ保護工事のため、斜面を掘削したところ、人骨とともに金環(きんかんー銅線を環状に整形し金メッキを施した古代のイヤリング)が発見され、工事を一時中止して発掘調査を実施している。
発見された横穴墓は総数で九基を数えるが、東側と西側の未発掘部分にも連続しており、相当数が埋没していると推定される。それぞれの横穴墓は、斜面上の比較的高い位置の標高四十一メートルに沿って構築され、それぞれの間隔も五メートル内外に保たれていた。そのことは極めて規則性のある配置といえ、計画的に構築順位をもっていたことが物語れる。一号横穴墓は、玄室(げんしつー遺体を安置するへや)の壁際一部を工事で削閉されていたことを除けば完全に残っていた墳墓であった。入り口部分は砂室泥岩の一枚の切り石で蓋をし、さらに外側から小礫を積み上げ粘土で固定している。内部には小礫を一面に敷きつめていた。ここからは二体の人骨を身につけていたと思われる金環二点が発見されている。
この横穴墓群の築造時期は、四号墓から出土した須恵器から七世紀中ごろと考えられている。昭和五十一年四月に市指定を受けている。(所沢市教育委員会掲示より)

滝の城跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」

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