吉祥院。飯能の領主黒田直純が創建
吉祥院の概要
曹洞宗寺院の吉祥院は、江戸で死去した飯能の領主黒田直邦を能仁寺裏の霊場多峯主山へ移送する際に当初へ立ち寄った縁により、その子息黒田直純が能仁寺15世天順廣亮大和尚を開祖とし、燉霊梅園大和尚を住職として創建したといいます。
山号 | - |
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院号 | 吉祥院 |
寺号 | - |
住所 | 所沢市東狭山ヶ丘5-2724 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
吉祥院の縁起
吉祥院は、江戸で死去した飯能の領主黒田直邦を能仁寺裏の霊場多峯主山へ移送する際に当初へ立ち寄った縁により、その子息黒田直純が能仁寺15世天順廣亮大和尚を開祖とし、燉霊梅園大和尚を住職として創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による吉祥院の縁起
(三ヶ島新田)
記載なし(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による吉祥院の縁起
曹洞宗 武野山吉祥院
江戸幕府五代将軍徳川綱吉に若い頃から仕えていた黒田直邦は、武蔵七党の一つ飯能を治める丹党中山氏の出で、外祖父黒田氏の養子となりました。その豊かな思想、卓越した識見により八代将軍吉宗に至るまで、四代五十余年も徳川家に仕え、老中にもなり、上野国沼田藩三万石の大名にまでなりました。
享保二十年(一七三五)三月二十六日、江戸の藩邸で七十歳で死去した直邦は、菩提寺である飯能の能仁寺裏の霊場多峯主山に葬られました。その葬送の途中にこの地で休息した縁により、宝暦八年(一七五八)二代黒田直純によって、能仁寺の十五世天順廣亮大和尚を開祖とし、燉霊梅園大和尚を住職として約十四町(四万二千坪)の土地を拝領し吉祥院を開きました。
直邦は綱吉の側近の頃、二十歳も年下であったが、度々屋敷へ訪問(御成り)を受けるほど綱吉より厚く信任されていました。そして祖先ゆかりの飯能を飛び地として拝領し、祖先中山家勝の建てた能仁寺の再建に力を注ぎ寺領五十石の大寺としました。直純の代に沼田藩より上総久留里藩に移封になりましたが、明治維新まで黒田氏が飯能の領主でした。
吉祥院は昭和四十八年(一九七三)に現在の建物に再建されるまで火事などの災害に見舞われもせず、創建当時のままの本堂でした。(境内掲示より)
吉祥院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿