出雲乃伊波比神社。寄居町赤浜の神社

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出雲乃伊波比神社。延喜式内社に比定される社、旧八幡社

出雲乃伊波比神社の概要

出雲乃伊波比神社は、寄居町赤浜にある神社です。出雲乃伊波比神社の創建年代等は不詳ながら、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「出雲乃伊波比神社」に比定されています。源頼義が、天喜年間(1053-1058)奥州征伐に際し、当地附近を通りかかり、当社に白旗を奉納して戦勝を祈願したことから、「白旗八幡社」と称するようになったと伝え、以後八幡社と呼び習わされてきました。戦国時代には字下河内の八幡塚に祀られていましたが、荒川の氾濫により住民80戸共に当地へ天正8年(1580)に移住、当社も遷座しています。江戸期を通し春日社を相殿とする八幡社として祀られてきましたが、明治維新後の王政復古を機会に社号を出雲乃伊波比神社と改称、明治32年には郷社に列格していました。

出雲乃伊波比神社
出雲乃伊波比神社の概要
社号 出雲乃伊波比神社
祭神 須佐之男命
相殿 三穂津姫命、誉田別命、天兒屋根命、天玉太命、天穂日命、大己貴命、天照皇太神、軻遇突智命
境内社 八坂社、妙見社、榛名社、天照皇大神、浅間大神、伊奈荷・白山・愛宕・天満・古峰・三峰・蚕影大神合殿
祭日 夏祭り7月下旬の土日、大祭10月19・20日
住所 寄居町赤浜723
備考 -



出雲乃伊波比神社の由緒

出雲乃伊波比神社の創建年代等は不詳ながら、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「出雲乃伊波比神社」に比定されています。源頼義が、天喜年間(1053-1058)奥州征伐に際し、当地附近を通りかかり、当社に白旗を奉納して戦勝を祈願したことから、「白旗八幡社」と称するようになったと伝え、以後八幡社と呼び習わされてきました。戦国時代には字下河内の八幡塚に祀られていましたが、荒川の氾濫により住民80戸共に当地へ天正8年(1580)に移住、当社も遷座しています。江戸期を通し春日社を相殿とする八幡社として祀られてきましたが、明治維新後の王政復古を機会に社号を出雲乃伊波比神社と改称、明治32年には郷社に列格していました。

境内掲示による出雲乃伊波比神社の由緒

本社は、延喜式神明帳(九二七)に「男衾郡 三座(式内社)」の一社としてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、度重なる災害のため、古資料はことごとく滅失し、弘治三年頃(一五五七)には字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたと伝えを残すのみとなっている。天正八年(一五八〇)荒川の幾多の洪水に抗しがたく鉢形城主北条氏邦領地の時代に現在の地へ集落一体となって大移住を行い、本社殿も遷座した。以来、河岸段丘の赤浜は安住の地となり、既に四〇〇年余が経過し今日に至っている。正保三年(一六四六)には、水野石見守重郎左衛門忠貞が領地替え記念に社地及び境内に植樹したと伝えられている。
また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは天喜年中(一〇五三から五八)奥州征伐の途中、近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比神社の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称のほうが広く知られている。なお、出雲乃伊波比神社とは、出雲系の豪族集団が出雲の祖神を祭祀した社、また「出雲の神を斎う」社と表されている。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による出雲乃伊波比神社の由緒

(男衾郡赤濱村)
八幡社
村民八十家の鎮守なり、春日社を合祀し、【延喜式】神名帳に載たる男衾郡三座の内、出雲乃伊波比神社なりと云傳へたれど、させる古色とも見えず、又別に棟札古文書等の徴すべきものなし、殊に郡内板井村の氷川社をも、彼伊波比神社なる由いひ傳ふれば、何れを式神社とも定めがたし、
末社
氷川天神。稲荷二。疱瘡神。山神
神主高橋喜十郎。入間郡塚越村、勝呂雅楽の配下也、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による出雲乃伊波比神社の由緒

出雲乃伊波比神社<寄居町赤浜七二三(赤浜字伊波比)>
赤浜は、古えの鎌倉街道(現在の県道富田熊谷線)に沿った宿駅として知られている。しかし、赤浜の集落は、元から現在の所にあったのではなく、その名からも推察されるように、当初は荒川のすぐそばに開かれていた。そこは、肥沃で農耕に適してはいたが、毎年のように荒川が氾濫し、水害を被るような土地でもあった。そのため、天正八年(一五八〇)村民は合議の末に、そこから三〇Mほど標高の高い河岸段丘上の地に新たに集落を開いて移り住んだ。これが現在の集落で、当社も初めは荒川の岸辺の字下河内(現在の花園橋の下辺り)に祀られていたが、この時当時の住民約八〇戸と共に移転し、現在の境内に鎮まった。「八幡塚」と呼ばれていたその旧地は、長い間残されていたが、土地改良のため、昭和五十六年に跡形もなく取り壊され、その跡地近くに立つ記念碑と、そのやや南方の宮乃井と呼ばれる井戸にその名残をとどめるだけとなった。
社は、『延喜式』神名帳に、「男衾郡 三座」の一つとしてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、右に記した地勢のため、古資料はことごとく洪水で失われ、弘治三年(一五五七)ごろには字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたとの伝えを残すのみとなっている。
また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは、天喜年中(一〇五三-五八)、奥州征伐の途中、この近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。このような経緯により、八幡社と称していた時代が相当長かったため、出雲乃伊波比神社という伝統ある社名はいつしか人々の間から忘れ去られていったのであろう。
「八幡社、村民八十家の鎮守なり、春日社を合祀す」と『風土記稿』も記しているように、当社は、江戸時代には八幡社と春日社の合殿であった。そのことは、内陣に安置されている神像からもうかがわれる。当社の神像は、騎乗の八幡大切神像と鹿に乗る春日大明神像の二体で、それが二間社流造りの本殿の左右に一体ずつ納められていた。記録によれば、この神像は二体とも宝永年中(一七〇四-一一)に当時の神職高橋吉久が作って納めたものである。しかし、それほどの扱いにもかかわらず、春日社の由緒の方は全く伝わっていない。
当社が再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称の方が広く知られている。(「埼玉の神社」より)


出雲乃伊波比神社の周辺図