西古里矢弓神社。西古里・鷹巣の鎮守、新田氏に関する伝承
西古里矢弓神社の概要
西古里矢弓神社は、寄居町西古里にある神社です。西古里矢弓神社は、日本武尊が東国下向の途次休息した地に勧請したと伝えられます。その後新田氏一族の岩松直国が、当社参詣の際、新田義宗の遺児と出会い、遺児を長子満国の嫡嗣岩松満純と名乗らせ、随一の弓取りとなることを願って矢弓神社と改号したとも、また或いは新田義重が当社で流鏑馬を行った際、用いた弓矢を当社に納めたことから矢弓神社と称するようになったとも伝えられます。江戸期には西古里・及び(元禄年間に西古里から分村した)鷹巣の鎮守として祀られ、正保年間(1644-1648に西古里と鷹巣境に遷座、さらに大正6年当地へ遷座しています。
社号 | 矢弓神社 |
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祭神 | 日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 春祭り4月17日、秋祭り10月17日 |
住所 | 寄居町西古里124-3 |
備考 | - |
西古里矢弓神社の由緒
西古里矢弓神社は、日本武尊が東国下向の途次休息した地に勧請したと伝えられます。その後新田氏一族の岩松直国が、当社参詣の際、新田義宗の遺児と出会い、遺児を長子満国の嫡嗣岩松満純と名乗らせ、随一の弓取りとなることを願って矢弓神社と改号したとも、また或いは新田義重が当社で流鏑馬を行った際、用いた弓矢を当社に納めたことから矢弓神社と称するようになったとも伝えられます。江戸期には西古里・及び(元禄年間に西古里から分村した)鷹巣の鎮守として祀られ、正保年間(1644-1648に西古里と鷹巣境に遷座、さらに大正6年当地へ遷座しています。
新編武蔵風土記稿による西古里矢弓神社の由緒
(男衾郡西古里村)
弓矢明神社
當村及び鷹巣村の鎮守にて、兩村の持なり、相傳ふ當社は往昔日本武尊東國下向の時、憩息の古跡へ當社を勧請す、其後岩松治部大輔直國、足利家へ仕へて、鎌倉へ往来の折から、去し頃討死せし武蔵守義宗の事など思ひ合せ、當社へ参拝して丹誠をこらせしに、折ふし前庭に女ありて、小童を抱て立り、是を問へば義宗朝臣の忘形見にて妾は朝臣に召仕はれし女なり、義宗朝臣去し頃、越後國村松の邊にて討死したまひしより、亂を避てこの山里に忍び住るよし答ふ、直國悦て上州に伴ひ歸り、生長の後己が嗣子として、岩松治部大輔満純と名乗しむ、是より社號を矢弓と號すと云々、村老の傳ふる所かくの如し、今岩松家系附考を按るに、新田義貞滅亡の後、新田の地に殘る所の同姓の内、岩松治部大輔直國、始て足利直義に仕へてより以来、尊氏に從ひ別て基氏へは昵近して屡加恩あり、直國の子岩松左馬介満國、相續きて好く基氏に仕ふ、其嫡子治部大輔早世して、養子治部大輔満純を以て名跡を立、此萬純實は新田武蔵守義宗の子にて、童名容辻王丸と稱す、今【鎌倉大草紙】に據て考ふるに左馬介満國は本新田一家の人なり、如何なる心にや敵方の義宗が子を竊に養ひ置しに、一子治部大輔早世の後、彼容辻王丸を己が實子と披露し、岩松治部大輔満純と號して、家を相續せしめしと云、已上の説によりて考れば、満純を養ひて嗣とせしは、直國のこ満國にて、直國にはあらず、是土俗の傳へ誤れるなり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による西古里矢弓神社の由緒
矢弓神社<寄居町鷹巣三五三(西古里字屋敷附)>
当社には、二つの由来がある。一つは『風土記稿』に述べられている。当社は日本武尊が東国下向の途次休息した地に勧請した。下って、新田氏一族の岩松直国が鎌倉へ向かう時、同族新田義宗の死を悼み当社に参詣した。すると境内に不思議にホ赤子を抱く女が現れたので、直国がその女の素姓を問うと「私は亡き義宗公の侍女で、この子はその忘れ形見です。戦を逃れてこの山里に身を潜めております」と答えた。直国は、この出合いを神の思召しと思い、侍女と赤子を上州に連れ帰り、赤子を自らの嫡嗣として岩松満純と名乗らせた。これにより、満純が随一の弓取りとなることを願い、当社を矢弓神社と号した。ただし、この話に登場する直国の嫡嗣満純は、実際は直国の子満国の嫡嗣である。
もう一つは『大里郡神社誌』に述べられている。創建は『風土記稿』と同様に日本武尊東征伝説により語られているが、社号は、新田義重がこの地で流鏑馬を行った際、用いた弓矢を当社に納めたことから矢弓神社と称するようになったとある。また、初めは鷹巣字明神の地に鎮座していたが、正保年間(一六四四-四八)に西古里村の千野某と横瀬某の両氏が相計って西古里と鷹巣境に遷座し、更に明治四十年(実際は大正六年)に今の地に移転したといわれる。(「埼玉の神社」より)
西古里矢弓神社の周辺図