壱岐天手長男神社。延喜式内社、旧男衾郡の総鎮守
壱岐天手長男神社の概要
壱岐天手長男神社は、寄居町小園にある神社です。壱岐天手長男神社の創建年代等は不詳ながら、石田家の先祖当地に土着した折、旧在所の壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社を勧請したと伝えられます。当地松村家が勧請した神明社と共に江戸期には村の鎮守として祀られ、明治9年に村社に列格、明治41年に神明社とその末社の八幡社・春日社を合祀しています。明治時代初期には火防・盗賊除けとして信仰を集め、各地で「手長講」が結成されていたそうです。
社号 | 壱岐天手長男神社 |
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祭神 | 瓊瓊杵尊 |
相殿 | 木花咲耶姫命、彦火火出見尊 |
境内社 | 琴平・雷電・稲荷・津島・春日・八幡合殿、蚕影社、熊野社、稲荷社、大国主命、市杵嶋媛命、仙元社 |
祭日 | 春祭り4月19日、津島祭7月20日前後の日曜日、秋祭り10月19日 |
住所 | 寄居町小園132 |
備考 | - |
壱岐天手長男神社の由緒
壱岐天手長男神社の創建年代等は不詳ながら、石田家の先祖当地に土着した折、旧在所の壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社を勧請したと伝えられます。当地松村家が勧請した神明社と共に江戸期には村の鎮守として祀られ、明治9年に村社に列格、明治41年に神明社とその末社の八幡社・春日社を合祀しています。明治時代初期には火防・盗賊除けとして信仰を集め、各地で「手長講」が結成されていたそうです。
新編武蔵風土記稿による壱岐天手長男神社の由緒
(男衾郡上・下小薗村)
天手長男明神社
下村にあり、社内に蔵する棟札に、明暦元年九月吉祥日、奉造立天手長男大明神とあり
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神明社
是も下村にあり、前社同年の棟札あり、以上二社共に上下二村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による壱岐天手長男神社の由緒
壱岐天手長男神社<寄居町小園一三二(小園字宮地)>
荒川右岸の段丘上に位置する小園の地は、武蔵七党の猪俣党に属した尾園氏の所領に比定されている。開発の年代は明らかではないが、石田家と松村家の先祖によって行われたとの伝えがある。
口碑によると、当社は、石田家の先祖がこの地に土着した折、かつての在所であった壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社より勧請したことに始まる。「手長」の意味は『宗像大菩薩縁起』に「異国征伐ノ御旗竿也」とある。流造り見世棚の本殿には、勧請時に壱岐国から移したと伝える自然石を奉安している。
『風土記稿』には「天手長男明神社」と載り「社内に蔵する棟札に、明暦元年(一六五五)九月吉祥日、奉造立天手長男明神とあり」と記している。元治元年(一八六四)には宗源宣旨を受けている。
明治九年に村社となり、同四十一年には字宮前の村社神明社とその末社の八幡社と春日社を合祀した。神明社は、当地の開発にかかわった松村家によって勧請されたと伝える社である。(「埼玉の神社」より)
壱岐天手長男神社の周辺図