小被神社。寄居町富田の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

小被神社。延喜式内社、旧男衾郡の総鎮守

小被神社の概要

小被神社は、寄居町富田にある神社です。小被神社の創建年代等は不詳ながら、当地の豪族富田鹿が地主神である小被神を祀り、安閑天皇の時代に創建したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「小被神社」とされます。ます。鎌倉時代には、武蔵七党猪俣党の猪俣時範の子、重任が无動寺氏と称して当地に移住、当社は不動寺境内に鎮座していたといいます。天正8年(1580)に赤浜の村民が近くに移住してきたことから、当社を村境にあたる当地に遷座しています。古来より江戸期を通じ男衾郡の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年地内の諸社を合祀しています。

小被神社
小被神社の概要
社号 小被神社
祭神 瓊瓊杵尊
相殿 木花咲耶姫命、彦火火出見尊
境内社 愛宕・稲荷・白山・内ノ宮、牛頭天王宮、天照皇大神・山神・山神・富士浅間、神明社
祭日 春祭り4月15日、秋祭り11月17日
住所 寄居町富田1508
備考 -



小被神社の由緒

小被神社の創建年代等は不詳ながら、当地の豪族富田鹿が地主神である小被神を祀り、安閑天皇の時代に創建したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「小被神社」とされます。ます。鎌倉時代には、武蔵七党猪俣党の猪俣時範の子、重任が无動寺氏と称して当地に移住、当社は不動寺境内に鎮座していたといいます。天正8年(1580)に赤浜の村民が近くに移住してきたことから、当社を村境にあたる当地に遷座しています。古来より江戸期を通じ男衾郡の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀しています。

境内掲示による小被神社の由緒

富田邑は、第二十七代安閑天皇の朝、千四百七十年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
延喜式内社、第六十代醍醐天皇延長五年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて一、〇八一年前。
男衾郡総鎮守
旧村社(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による小被神社の由緒

(男衾郡富田村)
小被神社
【延喜式】神名帳に載る武蔵國男衾郡小被神社是なりと云、祭神瓊瓊杵尊にて郡内の惣鎮守なり、されど古文書棟札等の證とすべきものなし、社もさせる大社にあらで、免田纔に壹段五畝なり、不動寺の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による小被神社の由緒

小被神社<寄居町富田一五〇八(富田字宮田)>
当社は、『延喜式』神名帳に登載される男衾郡三座の一つで、古代から郡の惣鎮守として崇敬されている。
社伝によると、古代当社を奉斎した氏族は、安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿で、これが郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したとある。富田鹿の事跡は、現在明らかではない。これについては、地内にある古墳時代後期の伊勢原古墳群の発掘調査の成果を待ちたい。
また、この富田鹿のほかに古代当社に関与した氏族は、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者とLて入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏であると考えられる。この氏族の関連史料は『類緊三代格』と『続日本後紀』にある。これによると、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和八年(八四一)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(八四五)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者であった。恐らく壬生吉志福正は、男衾郡惣鎮守である当社に対し、大領としての政治的配慮から関与したものであろう。
鎌倉期に入ると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けたといわれる。『武蔵七党系図』によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。両氏の館跡については、男会民が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。ちなみに、この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地は、当社の旧鎮座地であった。
鎮座地の移転については、「武州男衾郡上下富田村与赤浜村境論之事」に次のようにある。天正年間(一五七三-九二)、荒川の洪水により右岸にあった赤浜村は疲弊した。このため、当時この辺りを領していた鉢形城主北条安房守の臣、大久保氏が、赤浜村民に対岸の富田村馬草場を耕作地として与えた。ところが、その後、赤浜村民が富田村の村境を越えて土地を領有してきたので、富田村民は、江戸初期、当社を村境に移転し、境界を明らかにしたという。
『風土記稿』によると、別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺が務めた。
明治期に入ると、神仏分離により不動寺は当社の祭祀から手を引くことになった。この時の「議定書」によると、明治二年、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となっている。
『明細帳』によると、明治四十年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀した。現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろう。(「埼玉の神社」より)


小被神社の周辺図