用土諏訪神社。応和年間に創建、寄居町指定文化財の獅子舞
用土諏訪神社の概要
用土諏訪神社は、寄居町用土にある神社です。用土諏訪神社は、坂上田村麻呂東征の折に当地で徴発された兵(東使家)が信州諏訪に土着、その五代孫が、故郷である当地に戻り、応和年間(961-964)に創建したと伝えられます。慶長年間(1596-1615)に当地へ遷座したといいます。当社例祭に奉納される獅子舞は、天正年間(1573-1592)頃より始められたとされ、寄居町文化財に指定されています。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社二社、手長神社 |
祭日 | 例祭10月第三土日曜日 |
住所 | 寄居町用土1695 |
備考 | - |
用土諏訪神社の由緒
用土諏訪神社は、坂上田村麻呂東征の折に当地で徴発された兵(東使家)が信州諏訪に土着、その五代孫が、故郷である当地に戻り、応和年間(961-964)に創建したと伝えられます。慶長年間(1596-1615)に当地へ遷座したといいます。
境内石碑による用土諏訪神社の由緒
当神社は応和年間武州用土諏訪山に建御名方神を祀る社として創建された。以来地域の守護神として広く崇敬を集めてきたが、慶長の頃神社を護持する氏子崇敬者により現在地に遷座された。この間幾多の社会変動等困難な時局の中にあっても敬神崇祖の年に変わることなく、祭りの厳修をはじめ獅子舞その他数々の神賑行事を斎行してきた。元文五年に神殿を、明治二十九年に拝殿をそれぞれ改築した。その後長い歳月を経て社殿の破損が甚だしく、改築の機運が高まり、皇紀二千六百六十一年の吉き年をも記念して、氏子崇敬者の多数の寄進により改築を実施、平成十三年九月十六日めでたく完成、竣工遷座祭が厳かに斎行された。
ここに諏訪神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による用土諏訪神社の由緒
(用土村)
諏訪社二宇
村民の持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による用土諏訪神社の由緒
諏訪神社<寄居町用土一六九五(用土村字下宿)>
当社は、用土の集落の一つである下宿に鎮座している。境内に接してかつての鎌倉街道が走る。この道は中世、鎌倉から武蔵国府を通り、上野・信濃・越後方面に至る主要道であった。
社伝によると、坂上田村麻呂東征の折、その道々で兵を募り、軍を整えた。この時、当地からも多数の援軍が加わった。東征を終えて東山道から京へ上る途次、当地から参加した郎党は信州諏訪の地に土着した。その後、五代を経た孫が、故郷の当地に戻るに当たり、諏訪大神を勧請した。時に応和三年(九六三)のことであった。
これとは別に、「当社は東使家の先祖によって同家の土地に祀られた」との口碑がある。系図によると、東使家の先祖は藤原鎌足の末裔で、東使政房の時に坂上田村麻呂の東征に従い、鎌倉期に至り常貞が鎌倉殿に仕え功績により鹿毛馬の御幕を賜る。更にその孫時仲が関東公方足利基氏に仕え、戦国期に入り後裔重政は川越夜戦に上杉方として参戦し、その孫重貞は鉢形城主北条氏邦の家臣となったとの伝承を有する。
また、江戸期には名主役を務めていた。明治二十八年の「取調書」には「天正年中(一五七三-九二)弾正重貞当社ニ祈誓シ正ニ神徳アリ同十九年二月獅子三頭ヲ作リ当社ニ奉納シ現今保存有之」との記事が見える。ちなみに、同家は当社の北東に居を構え、その近くの御手洗池は氏子の耕作地を潤していたという。(「埼玉の神社」より)
用土諏訪神社所蔵の文化財
- 獅子舞(寄居町指定文化財)
獅子舞
この行事は、江戸時代から始まったとする説があり、雨乞いや悪病流行の際に行われたほか、恒例としては、10月の第三日曜日とその前日に行われている。
獅子舞の役所は、「アバレ」「オジイ」の二頭の男獅子と一頭の女獅子、「ササラ」二人、「笛方」「ほら貝吹き」各一人に、さらに観衆の中からおどけた面をかぶった「道化」が飛び入りで加わる。
舞は「道中」「三拍子」「笹掛り」「花掛り」「まりあそび「橋わたり」「女獅子がくし」の七庭である。
美しい笛、太鼓の音につれて勇壮な獅子舞とおどけた道化とが入り乱れて舞うさまは、いかにも村の祭りらしい情景である。(寄居町教育委員会掲示より)
用土諏訪神社の周辺図