泉福寺。後深草法皇の勅願寺
泉福寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の泉福寺は、水澄聚祥山玉泉院と号します。泉福寺は、宋から渡来した大寂眞應國師了然法明和尚(正嘉元年1257年寂)が、後深草院素實法皇の勅願寺として創建、水澄淵玉泉寺と号していたといいます。武田信玄が侵攻した際に焼失したものの、鉢形城主北条氏邦の家臣萩原勘七昌久(泉福軒寺昌岩榮久居士)が再建、水澄聚祥山玉泉院泉福寺と改号しています。
山号 | 水澄聚祥山 |
---|---|
院号 | 玉泉院 |
寺号 | 泉福寺 |
住所 | 寄居町鉢形617 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦牟尼佛 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
泉福寺の縁起
泉福寺は、宋から渡来した大寂眞應國師了然法明和尚(正嘉元年1257年寂)が、後深草院素實法皇の勅願寺として創建、水澄淵玉泉寺と号していたといいます。武田信玄が侵攻した際に焼失したものの、鉢形城主北条氏邦の家臣萩原勘七昌久(泉福軒寺昌岩榮久居士)が再建、水澄聚祥山玉泉院泉福寺と改号しています。
新編武蔵風土記稿による泉福寺の縁起
男衾郡甘粕村)
泉福寺
臨済派禅宗、京都妙心寺末、或は玉泉院泉福寺と稱し、水澄聚祥山と號す、開山大寂眞應國師了然法明和尚、正嘉元年十二月八日寂す、寺傳云、眞應國師は宋の經山寺無準の法を嗣て、来朝の時後深草院素實法皇尊崇し賜ふこと淺からずして、爲に一寺を造立し玉はんと宣ひしかば、師此鉢形の地を撰て草創せり、然るにこゝに古井有て、寶玉浮み出しゆへ、寺を玉泉と號し、又師河に臨て雨を祈りし時、龍神忽然と出現して雨を降せしに、彼龍現れし處水澄て清冽たりし故其淵を水澄淵と唱ひ、遂に取て山號とす、水澄淵の名は今も荒川の中流に殘れり、法皇則ち勅願寺の額を賜はり、永く勅願所に命ぜらる、其後武田信玄此邊追捕の時、兵火にかゝりて堂舎以下悉く焼亡せしを、北條氏邦鉢形在城の頃、其臣萩原勘七昌久再建して、玉泉泉福寺と改號す、昌久慶長十二年四月九日卒し、泉福軒寺昌岩榮久居士と追號すと云、此後も本山にては、因循して勅願寺を以稱せし事、慶長九年甲辰大呂八日、住僧珪鐵が記室寮官となりし時、官錢の手券にも記せり、本尊釋迦を安置す、
撞鐘。天明七年新鑄の鐘なり、
天神社。境内の鎮守とす、
薬師堂。泉福寺持(新編武蔵風土記稿より)
泉福寺の周辺図