泉立寺。町指定有形文化財の泉立寺朱印状九通
泉立寺の概要
曹洞宗寺院の泉立寺は、士峯山と号します。泉立寺は、戦国時代末頃に創建白岫和尚が泉立庵と称して草創、豊臣秀吉が当地を通行する際、近隣の僧侶を探し求めたところ、白岫和尚が召し出され読経、読経後に秀吉より15石余りの御朱印を受領したといいます。受領に際して御朱印地を杖先で指図されたことから杖先の朱印状と唱えていました。御朱印状受領により白岫和尚が一寺となし開山、堂宇建立に尽力した牟礼村の地頭内田弥三郎を開基としています。江戸期には慶安元年(1648)に徳川家光より寺領15石1斗の御朱印状を受領、幕末まで受領した9通の御朱印状は寄居町有形文化財に指定されています。
山号 | 士峯山 |
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院号 | - |
寺号 | 泉立寺 |
住所 | 寄居町今市908 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 千手観世音菩薩像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
泉立寺の縁起
泉立寺は、戦国時代末頃に創建白岫和尚が泉立庵と称して草創、豊臣秀吉が当地を通行する際、近隣の僧侶を探し求めたところ、白岫和尚が召し出され読経、読経後に秀吉より15石余りの御朱印を受領したといいます。受領に際して御朱印地を杖先で指図されたことから杖先の朱印状と唱えていました。御朱印状受領により白岫和尚が一寺となし開山、堂宇建立に尽力した牟礼村の地頭内田弥三郎を開基としています。江戸期には慶安元年(1648)に徳川家光より寺領15石1斗の御朱印状を受領、幕末まで受領した9通の御朱印状は寄居町有形文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による泉立寺の縁起
(男衾郡今市村)
泉立寺
禅宗曹洞派、児玉郡高柳村長泉寺末、士峯山と號す、寺傳に云昔太閤秀吉此邊通行の時、此邊に僧はなきやと尋らる時に、觀音堂場の泉立庵主白岫といふもの出で謁し、太閤の望にて經文讀誦せしかば、やがて懐紙に十五石餘の墨附したためて賜ひ、持たる杖にて其地を指圖せられしとなり、是を杖先の朱印と唱ふ、又其杖幷に雪舟が畫きし達磨の一軸、龜の尾骨附の拂子をも賜へり、こゝにて白岫堂宇を造立して一寺となし、庵號を改て寺號とす、故に今白岫を開山とす、寂日は慶長十八年七月十二日なり、當時力を戮せて堂舎を造立せしものは、内田彌三郎とて、其頃隣村無禮村の地頭たりしと云、此人慶長十七年五月廿日卒して、子孫は村民となり、今忠八と稱す、かゝる由ある古刹なれば、大猷院殿の御時、寺領十五石一斗餘の御朱印を賜はりしとなり、本尊千手觀音行基の作と云、
什物
拂子壹握。龜の尾骨附の拂子にて、柄は唐木なり、これ則太閤秀吉の賜物なり、此餘杖と達磨の一軸は、回禄に逢て傳はらず、(新編武蔵風土記稿より)
泉立寺所蔵の文化財
- 泉立寺朱印状九通(町指定有形文化財)
泉立寺朱印状九通
朱印状は、戦国大名や江戸将軍家が朱印を押して発行した公的文書のことで、印判状ともいいます。花押とよばれる図形化したサインの代用として使われたことが始まりといわれ、印章は朱色と黒色があり、当初は使用の区別はなかったようですが、江戸時代になると所領安堵などの重要な公文書には朱印、将軍の私的な内容や軽微な事項では黒印が用いられるようになっていきました。
泉立寺は、戦国時代末頃に創建されたものと思われ、開山は白軸和尚、開基は牟礼村の地頭であった内田弥三郎と伝わっています。新編武蔵風土記稿では豊臣秀頼から十五石のお墨付をもらい、その範囲をもっていた杖で示したことから杖先の朱印状と唱えたとあります。このような古刹のため、徳川将軍三代家光の頃に十五石一斗の寺領を発給されています。
泉立寺の朱印状は、慶安元年(一六四八)八月に発給したものに始まり、以後五代綱吉・八代吉宗・九代家重・十代家治・十一代家斉・十二代家慶・十三代家定・十四代家茂までの九通が残されています。(寄居町教育委員会掲示より)
泉立寺の周辺図