久米田神社。倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間に創建
久米田神社の概要
久米田神社は、比企郡吉見町久米田にある神社です。久米田神社は、倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間(708-715)に創建、『日本文徳天皇実録』天安2年(857)9月の条に「倭文一神」として従五位下に昇叙したといいます。祭神の建葉槌命は天羽槌雄命の別称で、天照大神が雨岩屋戸に隠れたときに文布を織った神で、飛鳥時代から白木綿の生産が盛んだった当地で機織りや、養蚕に関わる信仰が盛んだったといいます。
寛文12年(1672)に菅原道眞公を配祀、江戸期には天神社と称し、久米田村の鎮守社として祀られ、明治4年村社に列格、久米田神社と改めています。
社号 | 久米田神社 |
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祭神 | 建葉槌命(天羽槌雄命)、菅原道眞公 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、亀殿社 |
祭日 | 夏祭7月24日 |
住所 | 比企郡吉見町久米田132 |
備考 | - |
久米田神社の由緒
久米田神社は、倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間(708-715)に創建、『日本文徳天皇実録』天安2年(857)9月の条に「倭文一神」として従五位下に昇叙したといいます。祭神の建葉槌命は天羽槌雄命の別称で、天照大神が雨岩屋戸に隠れたときに文布を織った神で、飛鳥時代から白木綿の生産が盛んだった当地で機織りや、養蚕に関わる信仰が盛んだったといいます。
寛文12年(1672)に菅原道眞公を配祀、江戸期には天神社と称し、久米田村の鎮守社として祀られ、明治4年村社に列格、久米田神社と改めています。
新編武蔵風土記稿による久米田神社の由緒
(久米田村)
天神社
村の鎮守なり、梅松院持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による久米田神社の由緒
久米田神社<吉見町久米田一三二(久米田字宮田町)>
久米田は流川の東方に位置し、吉見丘陵と平坦地にまたがり南北に長く広がっている。地内には弥生時代後期から古墳時代前期の久米田・山の上の両遺跡や古墳群があり、古くから開けた土地である。
かつての久米田村は、根古屋・柚沢・土丸・流川・長谷を含む大村であったが、慶長年間(一五九六-一六一五)から徐々に分村し、正保年間(一六四四-四八)の改編で久米田が独立して一村となった。
当社の創建は、口碑によれば和銅年間(七〇八-一五)である。古くは倭文神社で、『日本文徳天皇実録』の天安二年(八五七)九月条に武蔵国の「倭文一神」として従五位下に昇叙したことが載る。寛文十二年(一六七二)十一月二十五日に、菅原道真公を配祀した。当時の神像と木札を現在も奉安している。社号も倭文天神社に改めていた。
当地は古代から、白木綿の産地で、正倉院に残る白木綿に「横見郡御坂郷」と記され、しかもこれは飛鳥時代の遺物である。この機織の守護のため祀られたのが当社である。ゆかり深い白木綿は後世にも織られていたようで、明治三年、「養老の典」に浴した地内の内山塩(当時九一歳)による手織りの一反が、明治天皇が大宮氷川神社に行幸の折に献上された。
別当は梅松院であったが、維新の際に廃寺となり、現在は社務所になっている。明治四年に村社となり、同年七月に現社号に改称した。(「埼玉の神社」より)
久米田神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)