松崎八幡神社。松山城の帰農武士が開発
松崎八幡神社の概要
松崎八幡神社は、比企郡吉見町松崎にある神社です。松崎八幡神社は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人が当地を開発、元亀2年(1571)山ノ下・松崎両村の鎮守として創建したといいます。明治4年村社に列格しています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社 |
祭日 | 例祭旧暦9月15日 |
住所 | 比企郡吉見町松崎254 |
備考 | - |
松崎八幡神社の由緒
松崎八幡神社は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人が当地を開発、元亀2年(1571)山ノ下・松崎両村の鎮守として創建したといいます。明治4年村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による松崎八幡神社の由緒
(山野下村)
八幡社
當村と松崎村との界にあり、兩村の鎮守にて、松崎村千乗寺持、
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(松崎村)
八幡社
説山野下村の條に記す(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による松崎八幡神社の由緒
八幡神社<吉見町松崎六五二(松崎字宮ノ腰)>
当社は大字松崎(旧松崎村)の鎮守として祀られているが、元来は松崎・山ノ下二か村の鎮守として奉斎していた。
松崎に隣接する山ノ下は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人によって開発された所であると伝える。
山崎家文書の天和元年(一六八一)「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」によれば、元亀二年(一五七一)八月に隼人・兵庫・刑部・図書・采女一同の心願により山ノ下・松崎両村の鎮守として正八幡社を村境に勧請した。これが当社の創建である。
境内にある石鳥居には「享保五庚子天(一七二〇)十二月吉日・松崎村中同山野下村・再建文政四辛巳年(一八二一)四月吉祥日」と刻まれている。また、『風土記稿』山野下村の項は「八幡社 当村と松崎村との境にあり、両村の鎮守にて、松崎村千乗寺持」と記している。これに見える別当の千乗寺は、八幡山と号する真言宗の寺院で、当社創建よりもそれほど下らない時期の開基であろう。
明治四年に村社となり、この時に松崎村一村の鎮守となった模様である。平成元年に火災により社殿が焼失したが、翌年に再建された。
なお、享保二年(一七一七)十一月二十七日付で神祇管領から拝受した宗源宣旨と宗源祝詞が現存する。(「埼玉の神社」より)
松崎八幡神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)