金蔵院。大串次郎重親の守り本尊毘沙門天
金蔵院の概要
本山修験宗寺院の金蔵院は、大串山と号します。金蔵院の創建年代等は不詳ながら、畠山重忠の家臣で平家物語や源平盛衰記にも登場する武将大串次郎重親の守り本尊だった毘沙門天を祀つため、大串次郎重親が毘沙門堂として創建、大串山知足院隆福寺を別当寺として七堂伽藍を備えていたといいます。松山城の攻城戦で天文年間に焼失してしまったものの、その後再建、慶安元年(1648)には毘沙門堂領8石6斗の御朱印状を拝領していました。
当寺には、応安6年(1373)銘・永和2年(1376)銘2基の宝篋印塔が保存され、永和2年(1376)銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」と呼ばれ、大串次郎重親の墓と推定され、2基ともに埼玉県文化財に指定されています。
山号 | 大串山 |
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院号 | 金蔵院 |
寺号 | - |
本尊 | 毘沙門天 |
住所 | 比企郡吉見町大串2244 |
宗派 | 本山修験宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金蔵院の縁起
金蔵院の創建年代等は不詳ながら、畠山重忠の家臣で平家物語や源平盛衰記にも登場する武将大串次郎重親の守り本尊だった毘沙門天を祀つため、大串次郎重親が毘沙門堂として創建、大串山知足院隆福寺を別当寺として七堂伽藍を備えていたといいます。松山城の攻城戦で天文年間に焼失してしまったものの、その後再建、慶安元年(1648)には毘沙門堂領8石6斗の御朱印状を拝領していました。
当寺には、応安6年(1373)銘・永和2年(1376)銘2基の宝篋印塔が保存され、永和2年(1376)銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」と呼ばれ、大串次郎重親の墓と推定され、2基ともに埼玉県文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による金蔵院の縁起
(大串村)
毘沙門堂
本山修験、松山町觀音寺の持、本尊は行基の作、長三尺許の立像なり、相傳ふ當寺は大串次郎重親創立とす、毘沙門は則其守本尊なりとぞ、當寺は七堂伽藍備り、別當を大串山知足院隆福寺と號せしが、天文年中松山戦争の時兵火にあひ、後今の如く堂舎を營み、慶安元年堂領八石六斗を附せらる、村内字寺家通り應生寺・光楽寺通など唱るは、皆隆福寺坊中の名殘なりと云、
大串次郎重親墓。
堂の背後に在、五輪の石塔にして、面に永和二年丙辰十二月日沙彌隆保と彫る、これ重親が法謚なりと云、大串は武蔵七黨の内横山黨にて、祖先は小野篁の後胤、横山大夫義高の苗裔、由木六郎保經の二子を大串次郎孝保と號す、是大串の祖にして、其子大串次郎親保また重親と號せし由、彼系譜に見ゆ、又【東鑑】文治五年八月十日、錦戸太郎國衡討死の條に、重忠門客大串次郎相逢國衡所駕之馬者、奥州第一駿馬、號高楯黒也、大肥満國衡駕之、毎日必三箇度雖馳登平泉高山不降汗之馬也、而國衡怖義盛之二箭、驚重忠之大軍、閣道路打入深田之間、雖如數度鞭馬敢不能上陸、大串等於得理梟首大遮也云々と見ゆ、此餘【平家物語】及び【源平盛衰記】宇治川合戦の條に、重忠に扶けられて重親が川を渡せしことを載たり、重親は畠山重忠が烏帽子子にして、屡戰功もありしとぞさるを、今此墓に永和二年とあれど、重親が錦戸太郎國衡を討しは、文治五年にして、其年代百八十餘年を隔たり、されば爰に記せる沙彌隆保は大串氏の人にて、重親が子孫などなるをたまたま著名たるによりて、重親が墓といひならはせしか、(新編武蔵風土記稿より)
吉見町・埼玉県掲示による金蔵院の縁起
毘沙門堂と大串次郎の墓
毘沙門堂は、大串山金蔵院といい修験の寺で、本尊は行基の作といわれる毘沙門天の立像である。
毘沙門天は、武勇の神であり、武将大串次郎重親はこれをあつく信仰し、この地に寺を建立したと伝えられる。
この寺は、もとは七堂伽藍が備わった立派な寺であったが、天文年中(一五四六年ごろ)北条、太田両氏の松山城争奪戦に遭って焼失してしまった。
現在のお堂は、後に建てられたものである。また、毘沙門堂の西方七十メートルの畑の中にある塔を宝篋印塔といい、高さ一、九メートルあり、九輪の上部は欠損しているが、他は完全で関東地方では整った美しさをもつ優秀な塔の一つである。
昭和五年に県指定史跡となっている。
この塔は、源平の昔、有名な宇治川の合戦の折、畠山重忠と先陣を争った大串次郎重親の墓と伝えられている。
平成十年三月(吉見町・埼玉県掲示より)
金蔵院所蔵の文化財
- 金蔵院宝篋印塔二基(県指定史跡)
金蔵院宝篋印塔二基
宝篋印塔とは鎌倉時代中期に出現し、宝篋印陀羅尼経という経典を塔内に納め、礼拝供養を行なった石造塔である。金蔵院には山門の入口にある応安六年(一三七三)銘、御堂の西側にある永和二年(一三七六)銘の宝篋印塔がある。その構造は共に二重式という県内でも大変珍しいタイプであり埼玉県の指定となっている。かつてはこの永和二年銘の宝篋印塔を含む周辺一帯が広大な金蔵院の敷地であったと言われている。
永和二年銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれており、文化・文政年間に編纂された「新編武蔵風土記稿」(一八一〇~一八二六に編纂)には、その当時から地元の人々の間で大串次郎重親の墓であるという伝聞があったことが記されている。大串次郎とは畠山重忠の家臣で平安時代末~鎌倉時代初頭(十二世紀~十三世紀)に活躍した人物であり、宝篋印塔にある永和二年(一三七六)銘とは約百五十年もの開きがある。そうしたことから大串次郎の墓という言い伝えは、後世に創作されたものと考えられていた。
しかし、平成十一年に実施した宝篋印塔の保存修理・覆い屋設置工事で、永和二年銘の宝篋印塔の地下から、人骨が納められた十二世紀~十三世紀の中国産の白磁四耳壷、十二世紀後半の愛知県渥美産の大甕を出土し注目を集めた。出土した白磁四耳壷は欠損部分がない完成品で、高さ二十・九cm、最大幅十七・三cmである。壷の肩の周囲に四個の環耳が付いているため四耳壷と呼ぶ。大甕は高さ五十八・四cm、口径四十五・一cm、胴部最大幅六十七・九cm、底径十五・三cmを計る。胴部には大甕を成形した際の三段のタタキが、肩部にはランダムのタタキが認められる。白磁四耳壷の外容器として使用されていた。出土した人骨の性別は、頭蓋骨、四肢骨の発達状況から男性と思われる。年齢は頭蓋骨の縫合の癒合状態などから、壮年後半と推測される。また、出土した焼骨の総重量は七百五十gであるが、一般に成人男性一体が火葬され、完全に灰化した重量は約三kgと言われている。
現在、白磁四耳壷と渥美産大甕は県指定文化財となっており吉見町埋蔵文化財センターで保管されているが、出土した人骨は別の容器に納め、この塔の地下で眠っている。
平成三十年三月(吉見町教育委員会掲示より)
金蔵院の周辺図