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無量寺|世田谷区用賀にある浄土宗寺院

無量寺の概要

浄土宗寺院の無量寺は、祟鎮山観音院と号します。無量寺は、光蓮社明誉寿広和尚(文禄3年1594年寂)が開山となり創建したといいます。

無量寺
無量寺の概要
山号 祟鎮山
院号 観音院
寺号 無量寺
住所 世田谷区用賀4-20-1
本尊 三尊阿弥陀如来坐像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



無量寺の縁起

無量寺は、光蓮社明誉寿広和尚(文禄3年1594年寂)が開山となり創建したといいます。

せたがや社寺と史跡による無量寺の縁起

崇鎮山観音院といい、沖土宗で芝の西応寺の末寺になっている。組寺として法徳寺行善寺大吉寺森巌寺浄光寺がある。
開山は光運社明誉寿広和尚で文禄3年(1594)8月16日示寂。本堂は42坪で本尊は阿弥陀如来、作者は春日といわれている。無量寺というのは、浄土三部経の中に阿弥陀経があり、その無量寿仏からとったものと考えられる。開山の頃は寺といっても九品仏のー僧の隠居所のようなものであったと思われるが記録はほとんどない。現住職は29世である。
観音堂は本堂の左にあって、14代住職の縁起によると、十一面観世音を安置し、行基の作といわれている。天正年間に用賀の住人で、高橋六右衛門尉直住という人が、品川の浜で漁師の網にあげられたものを、譲りうけて自宅でまつっていたが、その人の夢枕に観音のお告げがあり、無量寺に安置してくれと告げたのでここにまつったと巻物に残っている。
11月18日のおじゅう夜が、この寺では観音講と一緒に行なわれていた。十月十夜法要は、
天皇の安泰を祈ってから諷誦文をとなえる。
観音の講は、高円寺、阿佐谷、調布、桜木満仲等にあって、お十夜の時に観音を送りこんでくる。つまり観音はずっと巡行に出ていられたわけである。お十夜の行事がすむと、そのまま寺に泊りこんで、酒をくみかわしたり、踊りをしたりして、一面にはリクリエーシヨンをかねたわけである。境内には、古着の市や夜店がたったりした。このような行事は、昭和15、6年まで講中の人々によって続けられていた。
現在檀家は約250軒で、半分近くは農家である。「右府中道、左大山道」の道標が境内入口の左にあったが、今は区資料館に寄贈されている。寺の参道は東側の旧道に面していたものを、現在のように水道通(砧下浄水場→駒沢給水塔)に面するようにした。この宗派は、本堂は西に作られ、東面している西方浄土というわけである。7650坪の境内には、樹令140〜150年以上の大いちょうがそびえている。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による無量寺の縁起

(用賀村)無量寺
除地五段、小名三つ谷にあり、浄土宗、江戸芝西応寺末、宗鎮山観音院と號す、開山光蓮社明誉壽廣和尚文禄三年八月十八日示寂す。本堂六間四面南向、本尊三尊阿弥陀如来坐像一尺五寸春日の作也。
観音堂。本堂の右にあり、本尊観世音行基菩薩の作なり。
古碑四基。境内にあり、年月は左に録す、此外にも古碑多く見ゆれども悉く断碑にて文字を読得ざれば省きぬ。
元享□□十二月、延文二年七月日、文和二年二月日、応永五□年十月廿日(新編武蔵風土記より)

世田谷区教育委員会掲示による無量寺の縁起

浄土宗に属し、芝の西応寺の末寺で、祟鎮山観音院と称する。
寺史については明らかではないが、文政九年(一八二六)の「新編武蔵風土記稿」には「開山光蓮社明誉寿広和尚、文禄三年(一五九四)八月十八日示寂ス」と記されている。
本堂左の観音堂には、天正年間に品川の浜で漁師の網に揚げられ、用賀の住人高橋六右衛門直住が観音様のお告げにより当寺に納めたものと言い伝えられている観音像が安置されており、十二年に一回午の年に御開帳が行われる。この他にもかつて当寺においては「観音様の御巡行」「お十夜」などの観音にゆかりの行事が盛んに行われ大変な賑わいを見せていたという。
現在の観音堂は文政十三年(天保元年、一八三〇)の棟札があることから建立年代はその前後とみられる。ただし延宝四年(一六七六)の棟札も残されていることから、その草創はおそくとも江戸時代の前半期までさかのぼるものと考えられる。(世田谷区教育委員会掲示より)


無量寺の周辺図


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