一行院|新宿区南元町にある浄土宗寺院

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永固山一行院|千日毎に主家供養を執行・千日寺、千日谷、山の手三十三観音

一行院の概要

浄土宗寺院の一行院は、永固山千日寺と号します。一行院は、赤坂浄土寺の第九世源蓮社本誉上人利覚和尚(慶長11年1606年寂)が開山、永井右近大夫直勝(法名大雄院殿永井月丹大居士)が開基となり、永井家の家僕であった来誉故念が起立した庵を一寺として創建したといいます。永井家は当地周辺に下屋敷を拝領しており、永井宗家が「信濃守」を称していたことから当地周辺は信濃殿町とも呼ばれ、現地名信濃町になったといいます。また寺号については、起立した来誉故念が、千日毎に主家供養を執行したので千日寺と号し、当地が千日谷と称されるようになったといいます。当時所蔵の正観世音は、山の手三十三観音霊場28番、東京三十三観音霊場14番札所となっています。

一行院
一行院の概要
山号 永固山
院号 一行院
寺号 千日寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 新宿区南元町19-2
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 一行院千日谷会堂
備考 山の手三十三観音霊場28番、東京三十三観音霊場14番



一行院の縁起

一行院は、赤坂浄土寺の第九世源蓮社本誉上人利覚和尚(慶長11年1606年寂)が開山、永井右近大夫直勝(法名大雄院殿永井月丹大居士)が開基となり、永井家の家僕であった来誉故念が起立した庵を一寺として創建したといいます。永井家は当地周辺に下屋敷を拝領しており、永井宗家が「信濃守」を称していたことから当地周辺は信濃殿町とも呼ばれ、現地名信濃町になったといいます。また寺号については、起立した来誉故念が、千日毎に主家供養を執行したので千日寺と号し、当地が千日谷と称されるようになったといいます。昭和年間に入り信濃町駅の建設、高速道路4号線の建設に伴い、寺地が激減しました。

「四谷區史」による一行院の縁起

鮫河橋所在、境内二千二十五坪を有する浄土宗である。永固山千日寺一行院と號するが、起立年月は詳かでない。寛永二年五月三日に寂した開祖来譽故念は、永井家の家僕であつて所々の軍陣にも出た人であつたが、その後剃髪した時に、永井家では下屋敷の内に一宇を建立し、常念佛の寄附をした。千日毎に供養を執行したので千日寺と號した。尤もこの常念佛は五十年以後退轉したといふ。
開山は源蓮社本譽上人利覺和尚で、寂したのは慶長十一年五月五日であり、開基は大雄院殿永井丹大居士俗名永井右近大夫直勝で、寛永三年十二月二十九日を以て卒去した。本尊阿彌陀如来、観音堂があつて正観世音菩薩を安置するが、山手三十三観音の二十八番に當る。事蹟合考には此寺を以て江戸千日回向の始と傳へて、「鮫ヶ橋町西の行留り信濃町に上る坂口までの谷間の町を千日谷といふは、永井信濃守尚政の草履とり剃髪して浄土宗の道心者となり、この坂に庵を結びて念佛修行して侍りしが、終に寺院に建立し、千日不退轉の常念佛を結願したるとき、千日回向の供養をつとめたり、これ江戸におゐて千日回向のはじめなりしゆへ、御城下の男女参詣群衆したり、これよりして千日谷と俗唱したり、その寺今にいたり念佛不退轉に勤行するなり。」と記した。(「四谷區史」より)

四谷南寺町界隈による一行院の縁起

浄土宗、現称は千日谷会堂という。南寺町の本性寺顕性寺の裏手真南、国鉄信濃町駅の南側に一行院がある。
寺の南側前方にある坂は千日坂で、明治記念館側から北へ下ると低地が千日谷で 昔の一行院の山門前に出る。右折して旧鮫ケ橋に至る。もっとも、昔の千日坂は 旧都電通りの敷地の下あたりで、道路が拡張されて旧い坂はなくなってしまい、今とは大部様子が違っている。
「備考書上」によりて、一応同寺の概略を記してみると、永固山千日寺一行院といい赤坂浄土寺末である。起立の年月は詳かでない。寛永2年5月3日に寂した開祖来誉故念は永井家の家僕であって、度々の軍陣にも出た。その後剃髪した時、主家永井家では四谷鮫ケ橋屋鋪の内に一宇を建立し、常念仏の寄附をした。千日毎に供養を執行したので千日寺と号したが、念仏は五十年後に退転したという。
開山は源蓮社本誉上人利覚和尚で寂したのは慶長11年5月5日である。(この人は、赤坂一ツ木浄土寺の第九世で浄土寺を中興した。浄土寺は、文亀3年(1503)江戸城平川ロに創建され麹町から赤坂に移る)しかし利覚は、これは事実上の開山でなく、利覚を特に立ててそうしたまでであって、やはり、永井直勝の家僕、故念が当寺の開山とみるべきであろう。以上昭和39年発行の、鈴木成元氏著の「永井直勝」による。書上はさらに開基は、大雄院殿永井月丹大居士、俗名永井右近大夫直勝で、寛永3年12月29日卒去。 (この人の伝記は、前記「永井直勝」に詳記されている。)
本尊阿弥陀如来の他に観音堂があって、正観世音を安置し、山の手三十三観音霊場の第二十八番に当る。「事蹟合考、第三」には、千日谷の事を、
鮫ヶ橋町西の行留り信濃町に上る坂口までの谷間を千日谷というは、永井信濃守尚政の草履とり剃髪して浄土宗の道心者となり、この坂に庵を結びて念仏修行して侍りしが、終に寺院に建立し(註・庵から寺にすることは、本堂その他寺院の規模が整わないと幕府は許可しなかった)千日不退転の常念仏を結願したるとき、千日回向の供養をつとめたり、これ江戸において千日回向のはじめなりしゆえ御城下の男女参詣群集したり、これよりして千日谷と俗唱したり、その寺は今にいたりて念仏不退転に勤行するなり。
嘉永切絵図でみると、この辺は俚俗信濃殿町と称し、本家永井信濃守下屋敷を始め、永井肥前守下屋敷、永井遠江守下屋敷、永井金三郎、永井鉄弥下屋敷の五家が何れも隣接していて、千日谷には発昌寺、一行院と並んでいる。武鑑でみると永井家の菩提所は、下総古河の永井寺および江戸三田功運寺と宇治の興聖寺である。
永井直勝は下総古河七万二千石の藩主で永禄二年の生れ、重元の二男、初名伝八郎、早くより徳川氏に仕えて功あり、文禄四年従五位右近大夫に叙任、この時秀吉より豊臣姓を得(始め長田伝八郎、大江姓)元和七年日光造営奉行、八年十二月常州笠間より古河に移る。寛永二年十二月二十九日卒。年六十三。
しかし、一行院に墓はなく、位牌と供養塔のみである。次に、故念の主永井尚政は直勝の長男で山城淀十万石の藩主であったが、時代によって転封され、その末を継いだ天保頃は摂州高槻で三万六千石永井飛騨守真興となっている。寺は京の悲田院であるし江戸では品川東海寺清光院となっている。ここで故念の主人、永井尚政(ひさまき)の略伝を記しておく。
直勝の第一子。小字は伝八郎、歳十四歳甫めて徳川家康に従い、小山および関ケ原の役に従い、二年を経て秀忠に仕え、常州貝原塚の地に一千石を賜う。慶長十五年従五位下に叙され信濃守と称す。大坂夏の陣に従い先駆して功あり、明年食邑を加賜せらる。元和八年老職に列し書院番頭を兼ねたり。父卒して家を継ぎ封邑を割きて諸弟に与え、各々幕府に仕う。寛永十年職を免じ転じて山城の淀城に封ぜられ邑十万石を食み、京師幾甸の鎮護となる。正保元年従四位下に進む。万治元年仕を致し剃髪して信斉と号す。寛文八年九月十一日淀城で死去す。年八十二。法名、宝林院殿前信大守昆山大居士。宇治の興聖寺に葬す。尚政兼て茶道を好み、織部氏に就て之を能くし信斎と号す。子に五男あり、尚征、尚和、尚庸、尚成、尚冬。尚冬尚政の後を継ぐ。昭和25年、掃墓家故磯ケ谷紫江氏が同寺を訪れた時の記録を略記すると、
本尊阿弥陀如来は神田白銀町浄正仏師の作で、元禄2年の開限、千代田城奥女中百五、六十人の人名が刻してある。中庭には暦応2年、文明12年2月1日の板碑(新宿区文化財)と、元禄8乙亥天2月28日、専誉清心信女、施主新本村実井氏妻と刻した大青面金剛供養塔がある、とある。現今の納骨堂には正和4年の板碑(新宿区文化財)もあり、寺宝としてはこの他に、善導、円光両大師の木像もある。同氏の「四谷一行院風物」はさらに本堂左右には「金剛不壊身」「得大堅固力」の聯があった。崖上の墓地、駅のホームに近い処に、永井直重の墓がある、とあるが、これは現在本堂前広場にあって、墓は宝筐印塔である。直重は直勝の子で、墓石には、
(正 面)寂照院殿前吏部光誉月空徹心太居士、
(右側面)天和二年九月十一日
(左側面)永井式部少輔従五位大江直重
と刻されている。この直重重は「風物」に、直重、名は長八郎、式部少輔従五位下、元和四年召されて台徳院殿(二代秀忠)に仕え、御小姓を勤む。時に年十五。寛永三年正月、父が遣領下総国の内に於いて三千二百石を頒ち賜い、此年御上洛につき従い、五年八月六日従五位下式部少輔に叙さる。後病によりて務めを辞し、天和二年九月十一日歿す。年七十一。
また、傍に直元の娘の墓もある、と書いている。
また、ここには大久保筑後守の妾腹の子の墓や、京都、奈良奉行を勤めた、梶野土佐守一族の墓17基もあった。梶野土佐守良材の墓には、
嘉永六癸丑年
現功院殿従五位下前土佐守徳誉民厚諦山大居士
六月十四日
筋向いの妻の墓は、
文化十三丙子年
貞操院殿真誉妙性大姉(俗名とめ)
十二月十九日
この寺の殊に名墓としてほ、彫金家の岩本昆寛の墓が有名であって、今は千日谷会堂へ入る左手に移されている。墓石は台石より高さ1m位の太鼓形のもので、墓碑の表面直径は約40cm、正面に白峯南浦墓とあり、右側に騰誉彩雲信士、左側に高誉義通信士とあり、台石正面には性日岩本と刻してある。墓碑左右側面の句は「世をされば 頭陀ひとつなり 戻る旅」「つくりをく 墓もこころの しぐれかな」とある。
昆寛の初祖は岩本忠兵衛、横谷宗与の門人となって一家を成したが、其の作風は六代昆寛に至って、鮮かに一家の特徴を見るに至った。昆寛、本性浅井喜三郎、江戸の人、本家四代艮寛に就いて彫金を学んだ。師の艮寛は早世し、五代艮寛も亦早世したので家督を嗣いで岩本家の六代となった。その伝記は既に天保10年の「金工鐔奇」(田中一賀編)にもみえている。昆寛の彫刻は頗る精妙を極め、師艮寛の家を継いで後岩本と改む。性質風流にして書画俳譜にも達した。四ッ谷北伊賀町に住み、常に黒羽二重の衣服を着たので、時人あだ名して羽二重職人という。昆寛或人より銘を彫らず、其彫刻の一見して昆寛たるよし知れ易きようと依嘱を受く。昆寛、この意匠に窮すること数日なりしかど終に案まとまらず。昆寛また花街に足を入るる癖あって、一夜ほど近き内藤新宿の某妓楼に登る。妓来りて其名を問う。我名は昆寛なりと答う。妓大いに笑って「おまはんの名は、狐が鉦を敲くような名ですね」という。昆寛此時膝を打って大いに嬉び、日頃の苦心彼の一言に足れり。帰宅の後、稲を積みたる傍らに、狐の鉦を敲きて踊る形容を彫て依嘱主に与う。其人非凡の意匠なりと感服せりという。一説にこれより昆寛の字に改むという。享和元年(1801)九月十八日東す。年五十八。
この昆寛の墓の向い側、本堂入口右手に立つのは二万日回向供養塔で、四面とも南無阿弥陀仏と大書し、正面は「南無阿弥陀仏二万日回向」と記した下に「施主四谷講中」裏には「元禄三庚午年三月十一日 武州江戸鮫河橋一行院」とある。この両脇に永井直重の宝筐印塔と四谷惣町睦の供養塔がならんでいる。
本堂入口脇の階段から下に降りて裏門に出ると右側に数基の石塔がある。正面に「南無阿弥陀仏」、右側に「開山源蓬社本誉利覚和尚 慶長十一年五月五日」、左側に「二世開基釆誉故念法師寛永三年五月三日」と記した碑がある。
八千日供養塔は舟形光背に地蔵尊を浮彫りにし、脇に「八千日供養、明暦二年正月二十五日」と銘がある。「南無阿弥陀仏、万日惣回向供養石塔、万治三年正月二十五日」と銘のある一万日回向塔三万日回向塔は地蔵尊の立つ台石正面に「三万日 掌誉上人導師」、右側「享保十五年二月吉日」、左側に「万人講」とある。
また山之手三十三観音第二十八番の目印の石碑もある。正面に山之手廿八番、聖観世音菩薩、台石に一行院とある。裏面は一心院釈茂正居居士、酒好院釈尼妙勝大姉、明治四年辛末年三月九日、右側面は、文久三葵亥歳四月、施主、梶野内、野田吉左衛門、廿六世法誉代とある。これは梶野土佐守の後世の家士が建てたものか。この他種々の武家や、御書物奉行だった野尻高保の墓などもあったが、以上の石碑が残るのみで、他の墓は今は納骨堂に整理されてしまったらしい。
なお、改築前の正門右側、銀杏樹の根元にあって、今も裏門内に残る水盤には、表側、中央に一行院、右に永固山、左に千日寺、裏に元禄弐己巳年、上一木鮫河橋町、十月十五日とみえている。
この文字の中の上一木について考証してみたい。一ツ木といえば、赤坂一ツ木町(現在港区赤坂3丁目)附近だけと考えられるが、昔はその範囲はかなり広範囲にわたり、青山、元赤坂町、清水谷、鮫河橋、信濃町の方までの総称であった。「御府内備考」赤坂一ツ木町の条に、
町内起立の儀は、往古武州豊島郡貝塚領人継村と唱え、残らず山畑にて有之候、御入国の節(家康の)伊賀之者の衆百四十人の給地に下し置かれ、百姓町屋居に罷り成り、御鷹次御役、相勤め来り侯処、延宝三卯年より一ツ木村と書改申候、此儀は往古氷川明神、人継村に勧請有之侯砌、社脇に銀杏の大木有之、明神神木の由に付き、右を片取(形どり)右延宝年中より一ツ木村と書替侯由申伝えに御座候、然る処元禄九千年十二月中、能勢出雲守様川口摂津守様、町御奉行御勤役の節、能勢出雲守様御番所にて町支配に仰付られ候に付、御席次御免仰付られ、町並之通自身番屋火消役等仰付られ候、これによりて其頃より一ツ木村を一ツ木町と書改め申候、尤伊賀之老衆給地にて年貢差出申侯地所の儀は五ヶ所に相離れ侯町方に御座候。
とあって、伊賀の者は最初にこの地に給地され、のち、外濠構築の為、四谷の南北伊賀町に移されたものであろう。さらに
但し下一ツ木と申侯は紀州様御中屋鋪より南麻布、今井、青山大膳亮様御屋鋪境、榎坂、溜池御掘、赤坂御門内外迄を下一ツ木と申侯、然る処寛文四辰年迄に追々御用地に召上られ当時の一ツ木町ばかりに御座候、
とみえて、元禄頃は権田原、鮫河橋、信濃殿町の方迄上一ツ木と言ったと思われる。
この一行院も長い年月の内には盛衰あって、開起当時は2、025坪もあって、寛文図、元禄図を見ても位置は変っていない。が、明治初年には境内租税地1、800坪となり、明治中頃、後の方に国鉄信濃町駅が出来て狭められ、現在は寺前に高速道路4号線の入口が出来たりして、1、200坪となってしまった。
文政7年頃は本堂を初め建物が大破してしまって、檀家の沢田屋安兵衛が五十両を寄附して修復したり、弘化3年頃にも雨洩りなどがあって、檀家の寄附で辛うじて修復したという。当寺は門前町もなく、抱地や持添え地もなく、檀家だけなので経営に苦心したようである。
昭和39年頃高速道路が出来て、境内地は大分けずられたが、それを契機として今後の経営の基盤となるべき千日谷会堂が出来た。その墓地改葬の時の記録映画や発掘品も保存されていて、木製の入歯などもある。(四谷南寺町界隈より)


一行院所蔵の文化財

  • 一行院の板碑(新宿区登録有形民俗文化財)
  • 一行院墓地の出土品(新宿区登録有形民俗文化財)

一行院の板碑

鎌倉時代後期から室町時代後期までの七基の板碑が舎利塔内に保存されている。
完全な形のものはないが、都内では数少ない暦応2年(1339)の題目板碑が一基あり。
出土の事情等は明らかではないが、一行院橋付近にあったものと思われ、この地域における中世の信仰や民俗を物語る資料として貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)

一行院墓地の出土品

昭和37年(1962)首都高速道路四号線工事の際に、一行院の墓地から人骨と共に出土した墓誌二基とその他副葬品類約三百点が舎利塔内に保存されている。
墓誌には、文政10年(1827)と12年(1829)の紀年銘が刻まれている。
各種の副葬品類は、近世の風俗・文化を具体的に示すものとして貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)


一行院の周辺図