小野照崎神社|台東区下谷の神社

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小野照崎神社|小野篁祭神、下町八社巡り

小野照崎神社の概要

小野照崎神社は、台東区下谷にある神社です。小野照崎神社は、仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、小野篁が上野から京都への帰途の際にその風光を楽しんだ上野照崎(忍岡)に彼の霊を奉祀したといいます。その後、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり遷座、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に移転したといいます。下町八社巡りの一社です。

小野照崎神社
小野照崎神社の概要
社号 小野照崎神社
祭神 小野篁
配祀 菅原道真公
境内社 富士浅間神社、御嶽神社、三峰神社、稲荷神社、織姫神社
住所 台東区下谷2-13-14
備考 村社、旧別当寺:嶺照院



小野照崎神社の由緒

小野照崎神社は、仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、小野篁が上野から京都への帰途の際にその風光を楽しんだ上野照崎(忍岡)に彼の霊を奉祀したといいます。その後、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり遷座、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に移転したといいます。

台東区教育委員会掲示による小野照崎神社の由緒

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われる。(台東区教育委員会掲示より)

境内掲示による小野照崎神社の由緒

往昔祭神御東下の砌、上野照崎の地に御遺跡を留め給ひしを地民渇望して上野殿と尊称し、後に照崎の地名をとりて小野照崎大明神を尊崇奉斎するを鎮座起源とす。其後社殿大破せしを江戸太郎重長領主となるに及び武運を祈りて再建し、星霜移り寛永年中上野東叡山草創の砌坂本村長左衛門稲荷境内(境内地)に遷祀奉りし由緒正しき神社にして現社殿は慶應3年の御造営にて大正大震火災竝に大東亜戦争にも聊の被害も蒙る事無く氏子十八ヶ町の産土神として御神経癒、顕著也。御祭神小野篁命は敏達天皇の苗裔にして嵯峨天皇に仕へ博学俊才を以て知られ殊に詩歌に長じ淳和天皇天長年中には令義解を選し、下野国の任を蒙りて足利に至るや我国学校の創始たる足利学校を創立、孔子像を祀り国人に書経を教ふ。亦百人一首の「わだの原八十島かけてこき出ぬと人には告げよあまのつり舟」の詠人としても知らる。御配神菅原道真命に就いては江戸二十五社大神の一つにして渡会天満宮を伝承し菅原尊像を回向院より遷祀す。(境内掲示より)


小野照崎神社所蔵の文化財

  • 富士塚(日本国重要無形民俗文化財)

富士塚は江戸近郊に50余りあったものの、完全な形で残っているのは、当社の富士塚と、豊島区高松富士浅間神社の高松富士、練馬区江古田浅間神社の江古田富士、の3基のみで、いずれも国重要無形民俗文化財に指定されているといいます。

下谷坂本の富士塚

この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。 境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山進行は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。 ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。(台東区教育委員会掲示より)


小野照崎神社の周辺図