林西寺。呑龍上人が出家した寺院
林西寺の概要
浄土宗寺院の林西寺は、白龍山月照院と号します。林西寺の創建年代等は不詳ながら、等海成阿が開山したといいます。市野割村井上将監の二男呑龍上人(元和9年1623年寂)は当寺で出家、徳川家康の信頼厚く、学問料として50石を受領、また当寺も徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)に寺領25石の御朱印状を受領、呑龍上人を中興開山とするといいます。江戸期には近隣に数多くの末寺を擁する本寺格の寺院でした。
山号 | 白龍山 |
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院号 | 月照院 |
寺号 | 林西寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 越谷市大字平方249 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
林西寺の縁起
林西寺の創建年代等は不詳ながら、等海成阿が開山したといいます。市野割村井上将監の二男呑龍上人(元和9年1623年寂)は当寺で出家、徳川家康の信頼厚く、学問料として50石を受領、また当寺も徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)に寺領25石の御朱印状を受領、呑龍上人を中興開山とするといいます。江戸期には近隣に数多くの末寺を擁する本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による林西寺の縁起
(平方村)
林西寺
浄土宗、京都智恩院末、白龍山月照院と號す、本尊阿彌陀、惠心の作、開山等海成阿示寂の年代を傳へず、第九世然譽呑龍を中興開山とす、傳燈總系譜に、源蓮社然譽呑龍大阿故信と號す、武州岩槻の人、井上氏にて初め列の平方林西寺の笈辨に投て、剃染即其寺に住し、増上寺觀智國師に随學し、後瀧山大善寺に移り、又上野國新田大光院に住し、元和九年八月九日八十餘歳にて示寂と載せたり、當寺傳の略に、呑龍は郡内市野割村井上将監と云る者の二男にて、笈辨に投じて剃髪し、初は曇龍と號せしを、後神君の上意を蒙り呑龍と改しと云、又いつの頃にや、神君の御前法問の時、呑龍抜群なれば、御感賞として學問の料五十石を賜はれり、この時より藤田流を改め白旗流となり、則今の如く智恩院の末となる由、後天正十九年廿五石の御朱印を賜はれりと、猶呑龍のことは市野割村の民、井上氏の條見るべし、今も御朱印廿五石なれば、彼學問料は呑龍のみへ賜ひしなるべし、
鐘樓。近年鑄造の鐘なり
二尊堂。地蔵観音を安ず。(新編武蔵風土記稿より)
林西寺所蔵の文化財
- 代々の朱印状(越谷市指定有形文化財)
新編武蔵風土記稿による林西寺の縁起
浄土宗林西寺は、天正十九年(一五九一)に寺領二十五石の朱印状を交付される。
朱印状とは、天領を寺社等に寄進する旨を記した書状で、将軍の代りごとに交付されたが、将軍の任期が短かったり、幕末の動乱で交付しなかった将軍もみられ、徳川将軍十五代のうち十二通が発行されている。
この朱印状は明治政府に没収されたため、写ししかない寺院が多いが、当寺には秀忠のものを除き実物十一通が残されている。(越谷市教育委員会・林西寺掲示より)
林西寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿